かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

中世における書き手の四分類/電子テクスト時代における新たな著述のスタイル

 電子テクスト時代における、著述のスタイルについて考えることがあります。

 誰もが作者として振る舞うことによって、ごく無意味なもの、無能なもの、最悪のものがWebの空間を塞ぎ、麻痺させ、妨害してしまうのではないか。たとえそうだったとしても、最良のものをすくいあげる方法は無いのか。

 〔ドキュバースにおける〕新たな著述のスタイルを次のように分類します。explicit author (文献を編集・整理し、引用する者)implicit author(書物を収集・整理し、関係を与える者)。前者のテキストには大量の引用窓があり、それを覗いて、更に深く潜ることができます。後者のテキストには大量の付箋や余白への書き込みがあり、幾重にも重なった厚みの上に、更に厚く書き加えることができます。新たな書物の表面は、指先の感覚では捉えられないほど微細な凸凹で埋め尽くされています。

「作者の復活」かかれもの(改訂版)

 この著述に対するスタイルについて、時代を異にしてパラレルな議論があります。

中世の作者論では、著述に携わる人間には著者(auctor)と編纂者(compilator)の二種類があるとされた。ボナヴェントゥーラの定義によると、著者は、他人の見解で自説を補強しながらオリジナルな著述をする者で、編纂者とは、自分の見解を付け加えることなく、他人の書いたものを集めてひとつに編纂する者である。

『ヴィジュアル・リーディング 西欧中世におけるテクストとパラテクスト』松田隆美

 中世キリスト教における書物と人間の関係は砂時計のようです。博士や教父が、聖書の中の一節に対して注釈の種子を撒いて拡大させ、名もなき編纂者が、権威ある書物や書簡の中から価値があると判断した一節を選び、美しい花々として摘み取ります。このエコノミーによって、テクスト空間はよりいっそう凝集されていきます。神学や教父学(スコラ哲学)はこの体制によって絶頂を迎え、聖書は超越的なディスクールとなりました。

 聖書の言葉は「ロゴス」です。ロゴスは引用されても即座に源泉としてのロゴスに結びつけられ、ロゴスとしての価値を獲得します。聖書からの引用は「聖書において書かれているように……」と、それ自身がロゴスとしての権威を持つことになります。このように部分を取り出した全体の要約は際限なく拡大し、物神化へ至ります

「『第二の手、または引用の作業』引用の系譜学」かかれもの(改訂版)

《ロゴス》は聖書の唯一のレフェランスであり、聖書は《ロゴス》が姿を変えたものである。聖書を構成するすべての要素は、個々別々に取り上げても、聖書の全体と同じレファランスを持っている。聖書のひとつひとつの言葉は聖書の全体を意味し、《ロゴス》を表示している。というのも、あるひとつのロゴス logos は、《ロゴス Logos》を分有している点で、それを掲示するひとつの記号に他ならないからである。オリゲネスはこう書いている「神の《ロゴス》は、初めに神とともにあったものであり、それは多弁ではないし、あまたのロゴスでもない。それは、多くの文から成る《み言葉》であるが、そのひとつひとつの文は、同じ全体の一部分、同じ《ロゴス》の一部分なのである」。つまり、聖書の全ての文はお互いに等価である。なぜなら、それらはすべて《ロゴス》を含んでいるからである。聖書は数々の独立した小さなロゴスの連続であるが、これらは、全体から離れても、その性質を失うことはない。それらは〈聖書の声ウォケス・バギヌム〉であり、〈神の印ウェスティギア・ディー〉である。切り離されたひとつひとつの小さな切れ端であっても、そこには聖書の全体が潜在的に含まれているというのである。オリゲネスは言う。「聖書のひとつひとつの言葉は、種子に似ている。種子は、ひとたび大地に投げられ、穂が出れば、どんどん増え、広まっていく。[……]穂は最初のうちは、痩せて小さく見えるかもしれない。しかし、その穂を大切に育て、霊的に扱う、熟練した熱心な庭師に出会うならば、それは、やがて、樹木のように大きく成長し、大枝小枝を茂らせるだろう」。

アントワーヌ・コンパニョン『第二の手、または引用の作業』pp.264-265

 さて、ボナヴェントゥラの作者論における書き手は正確には四分類されています。テキストの「引用の程度」による、筆耕者、編纂者、注釈者、作者の四区分です。編纂の歴史を扱った『情報爆発』のなかでアン・ブレアはこの分類法を援用しています。

一二五〇年頃、ボナヴェントゥラは、パリ大学神学者であったとき、自分自身の言葉と他の人々から借りてきた言葉の割合に応じて、編纂者と作者を区別した。「書物を作るには四とおりの方法がある。ある者が他の[言葉]を、足すことも変えることもなく書き写すこと。そのような者は筆耕(scriptor)と呼ばれるにすぎない。ある者が他の者の言葉を、己れのものではない言葉を足しながら書くこと。そのような者は編纂者と呼ばれる。ある者が己れの言葉と他の者の言葉をともに書くが、他の者の言葉主とし己れの言葉は証拠としてそれに付随させるなら、そのような者は注解者と呼ばれるが、作者ではない。ある者が己れの言葉と他の者の言葉をともに書くが、己れの言葉を主とするなら、そのような者こそ作者と呼ばれねばならない」。
『情報爆発』アン・ブレア

 ボナヴェントゥラは、明らかに作者優位に論じていますが、現代においてこれをナイーブに受け取ることはできません。Webの空間は、全体を統制する超越的なディスクールが存在せず、あらゆるテクストが無制御に水平に拡がっています。そのため、ボナヴェントゥラが示すような垂直の関係から外れた書き手が溢れ、強い影響力を持っています。歪んだ筆耕者(精確に書き写すのではなく、意図的に欠落させたり、増幅させることで、別の解釈を与える筆耕を行う者)、自惚れた作者(権威あるテクストを過小に評価し、一切の引用無しに、自説だけを述べる者)を見かけることは少なくありません。しかし、垂直の繋がりから外れるということは、虚ろで、消えやすく、脆い存在であることを是とすることと同義です。

 近親相姦的な料理本の世界では、盗作という概念は存在しないらしい。新たにローズマリーの小枝でもそろえれば、そのレシピは自分のものになる。だが文学の世界のルールはもっときびしいーーことになっている。引用符を使うのがきらいだったり、日記に記した流麗な文章が実はフローベールの書いたものであることを「忘れ」たり、ローズマリーの小枝をそろえる程度にことばを変えることで、所有権が自分に移ったと思いこんだりするものは、よく知られているベンジャミン・ディズレーリのひとりよがりな(holier-than-thou)せりふのように、「人の知性の盗人」である。

『本の愉しみ、書棚の悩み』日の下に新しいものはない アン・ファディマン

 アン・ファディマンの言葉を警句として受け取ることは簡単ですが、翻って現代の私達が考えるべきは、(超越的ディスクールなき世界において)人間が怠惰であることを織り込んだエコノミーを構築することは可能か、という問いです*1

 作者だけが称揚され、その他の書き手(筆耕者、編纂者、注釈者)の仕事が評価されない背景には、著作権の問題や、コンピュータ技術を始めとする情報処理能力の向上が関係しているはずです。また、作者こそ至高というドクサが手伝うことで、歪んだ筆耕者や自惚れた作者を次々と生みだしているのでしょう。

 「客観的」な指標*2で美しい花々を摘むことは出来るのでしょうか。本当は私達が私達自身のために花々を選び取る仕事をするべきではないのか。創造的なテクストは、編纂と注解の極地にある間テクスト的想起、霊感から生まれるものです。

情報爆発-初期近代ヨーロッパの情報管理術 (単行本)
 
本の愉しみ、書棚の悩み

本の愉しみ、書棚の悩み

 

*1:注記すべきは、複製が容易であることと、テクストが残り続けることは別の問題ということです。メディア変換それ自体は容易ですが、その仕事を実現するためには誰かの意志が伴う必要があります

*2:たとえばGooglePageRankのように

『スイユ : テクストから書物へ』/パラテクストに注意!

 Para-という接頭辞は、近接と距離を、類似と差異を、内部と外部を同時に意味する二重の対照的な接頭辞である(……)それは、境界、敷居、あるいは余白のこちら側であると同時に向こう側でもあり、境位の点では対等でありながらやはり二次的、あるいは補助的、あるいは従属的なものである――ちょうど亭主に対する客、主人に対する奴隷のように。この接頭辞のつくものは、内部と外部を分かつ境界の両側を同時にあらわす、というだけではない。それはまた、境位そのもの、内部と外部を結ぶ浸透膜の役割を果たすスクリーンでもあるのだ。それは、内部と外部を同一視し、外部を内部へ、内部を外部へ横滑りさせ、両者を分離しながら結合させるのである J・ヒリス・ミラー*1*2

LIBER〔甘皮〕 樹皮と木質部のあいだ、cortexとlignumのあいだ、外に晒された思考と節くれだった内面のあいだの薄膜フィルム、それ自体は外にも内にもなく、外にも内にも向いており、外を内に、内を外に向かわせ、外で内を、内で外をめつすがめつする、外と内の境界面インターフェイス。書物とは、どのようなものになろうともーー電子化されようと、非物質化されようと、仮想ヴァーチャル化されようと、はたまた、革皮と金箔で装幀されようと、また、どんなに薄くなろうとも、「読者にとって純粋にして透明なる塊」であり続けるのではなかろうか。これを貫き通ることでわれわれが到り着くのは、ほかでもない、われわれ自身であるのだが、互いに、いや、おのおののうちで、聖刻文字ヒエログリフを相手にするようなものなのだ。 ジャン=リュック・ナンシー*3

  書物に向き合うとき、私達は本文だけを読んでいるわけではありません。外部に晒されたタイトルや著者名、あるいは広告を目にした瞬間から書物の総体に接触しています。ジェラール・ジュネットは書物の本文という明白な領域から、パラテクストという曖昧な領域へ、テクストの地平を拡げます。
 『スイユ:テクストから書物へ』(Seuils,1987)は、超テクスト性三部作を締めくくる一冊です。『アルシテクスト序説』で詩学の再定義とテクスト論への出帆を決意したのち、テクストローグとして『パランプセスト:第二次の文学』と『スイユ:テクストから書物へ』を著します。『スイユ』では、作者名、タイトル、献辞、エピグラフ、序文といった書物の本文を囲繞する多様な「パラテクスト」の収集分類と、そこから帰納されるパラテクストの機能が考察されます。

目次(この書物に書かれていること、書かれていないこと)

 さて、本書はジュネットの該博な知識と横溢する分類癖によって依然と長大な書物に仕上がっています。西洋、特にフランスにおける書物の共時的な分析として非常に有益な記録と言えるでしょう。
 下表は本書で扱われるパラテクストの一覧です*4。これだけ膨大な調査が蒸溜されて、一冊の書物にまとまっているだけでも、本書の成立は称賛に価します。

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パラテクスト一覧

 他方、この一覧表が不完全な状態であることは否めません。これについては著者自身も認識していることで、序文や結語にその弁明があります。少なくとも三つの角度から指摘ができます。

 一つ目は、通時的な分析が等閑に付されている点です。書物揺籃期(15世紀)のインキュナブラや、それ以前の写本についてはほぼ触れられていません*5。ただ、ジュネットが歴史性を軽視しているわけではないことは急いでフォローする必要があります。文学研究において今まで無視されてきたパラテクストという領域をまず明確化するのが本書の役目であり、本書を基準に通時的な研究が始まると主張しています。

 二つ目は、アジア圏の書物について触れられていない点です。東アジア(中国を中心に、日本を含め)はグーテンベルク以前から、形態は違えども書物を大量に生産する仕組みを持っていました。ここには当然、西洋文化と並ぶ重厚な歴史があります。総じて非ヨーロッパ文化圏の書物の分析は十分ではありません。
 三つ目に、網羅性という観点です。本書の試みはパラテクストの一覧表を作ることですが、不足している実践があることは容易に気が付きます。索引、書誌、引用した作者一覧、補足説明用の地図、建物の見取り図。小説であれば登場人物一覧、場所一覧、物語のまとめ。戯曲であれば配役表、衣装、人物の性格等々。つまり挙げればきりがありません。特に「翻訳」「連載による発表」「挿絵」という重要なパラテクストについては、調査不足(力不足)により含めることが出来なかったとジュネットは悔恨しています*6*7*8*9

序論(パラテクスト=ペリテクスト+エピテクスト)

 ジュネットはパラテクストの体制について大胆な定式を与えます。パラテクストは書物に物理的に付随している場合と、そうでない場合に分類ができる、と。物理本に対しては便宜的な分類と言えます(物理本でない形態、たとえば電子書籍においてこの定式の妥当性は留保する必要がありそうです)。

ペリテクストから、エピテクストを区別する公準は、原理的に、純粋に空間的なものである。同じ書物のなかのテクストに物質的に付随しておらず、潜在的には無制限の物理的かつ社会的空間のなかをいわば自由自在に流通しているあらゆるパラテクスト要素が、エピテクストなのだ。エピテクスト=書物ノ外ナラドコデモ。

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パラテクスト=ペリテクスト+エピテクスト

 「ペリ」という接頭辞は、『第2の手、または引用の作業』(アントワーヌ・コンパニョン)*10で創作された述語「ペリグラフィ périgraphie」(書物周辺)に由来します*11。『パランプセスト』(ジェラール・ジュネット*12において、超テクスト性の一形態として示唆した「パラテクスト」を、コンパニョンは「ペリグラフィ」と換言しました。ジュネットはこの語を踏襲し分類表に取り込んだようです。

 ペリグラフィ(書物周辺)とは、書物を空間として表現したものです。活版印刷の別称「人工書記」は、ここで新たな表現を生み出します。あえて古代のテクストと比較するなら、それまでオーラリティを基にした「線的モデル」であった言葉は、エクリチュールとしての「空間的モデル」へと移行しました。今や当たり前となったタイトル、著者、印刷者、刊行日、奥付、その他装飾の数々が加えられることになります。書物は一つのオブジェとなりました。その中でも特に「タイトル」は、本文に対する強い隣接性によって書物の固有名詞となります。また、「目次」と「索引」は書物空間を探索するための地図となりました(ラムスはこれを徹底的に推し進め、書物の内容を樹形図、グラフ、フローチャートで示しました)。
 こうしたアイコン的な性質は「ダイアグラム」と「イメージ」に分割できます。ダイアグラムはT1-A2〔テキスト−読者〕の関係で、書誌に象徴されるような、自身のテキストを補強するものであったり、自らの主張を読者に理解させるための構成、編集、文献の渉猟の結果を示すものです。イメージはA1-A2〔著者-読者〕の関係で、これは共謀的、同族的関係であったり、その者たちの間での血統を示すための「挨拶の文句」(タイトル、エピグラフ)です。「イメージ」という言葉の通り、何らかのマークや写真によって示されることが多く、極めてナルシシックで想像的な関係と言えるでしょう。

『第二の手、または引用の作業』引用の系譜学 - かかれもの(改訂版)

 パラテクストは、ペリテクストとエピテクストの境界をやすやすと超えて行きます。例えばエピテクストがペリテクストに移ることもあれば(これは明確に格上げを意味します)、ペリテクストだったものが除外されることもあります(これは情況的なテクストであることが多いようです)。この特徴はパラテクストの存在意義そのものに関連する、重要な性質です。

訳者あとがき(パラテクストの体制)

 さて、具体的なパラテクストは空間的、時間的、物質的、語用論的な体制、そしてそのテクストが果たす機能によって格子状に分類することができます。このルールについては野暮を嫌ってかジュネット自身による詳しい説明は省略されています。しかし、幸い訳者あとがきでこれについて丁寧に補完されています。本文と併せて読むことで、本書の目指している主題の骨格がより明確になります。

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 本書『スイユ』の主題は、これらの特徴を複合したテクストの例示であり、それらのテクストが読者へ及ぼす結果の考察と言えるでしょう。

結語(パラテクストの機能)

 パラテクストが書物外全てを対象とするのであれば、パラテクストの形式は限りなく細分化し、また拡大し続けます。そしてその機能は強く個別の事象に依っています。斯くして、全てを網羅した一覧表を作るなどという試みは失敗に終わることでしょう。

 しかし、ジュネットはこの膨大な研究を総合して、パラテクストの有する、ある共通の機能を発見します。結語ではこの共通の機能について語られます。
 改めてパラテクストとは何か。ジュネットは、パラテクストは著者と読者の間にある「水位」を保つための、水門の役割を果たしていると説明します。例えば「タイトル」は、テキスト全体に対して一つの意味を与える意図がありますが、それだけでなく「著者がそのテキストをそう呼ばせることを決意した」ということも意味しています。これによって書物は本文ではなく、タイトルという書物の欠片として世の中に流通することになります。現に大衆はある一つの作品を指し示すときに、専らタイトルをインデックスとしています。あるいはジョイスの『ユリシーズ』は、別の機能を大衆に提示しています。この物語が「ユリシーズ」というタイトルを冠することによって初めて、私達はそこにホメロスの影を感じることができます(イペルテクスト性)。これらは意図通りに解釈してもらうための、作者の配慮に他なりません。ジュネットは数年に渡るパラテクストの研究で、アプリオリに自明でなかった点として、この作者の偉大な職業的良心について言及します。作者の自己満足的な領域ではないかという推測とは裏腹に、彼らは総じてパラテクストを通じて、より「高貴な」成功を目指している、というのです。

 テクストそれ自体が時間的にも空間的にも固定されている以上、テクストは大衆の変化に即応することができません。これに対してパラテクストは、より柔軟に、より自在に、常に過渡的(トランジトワール)に振る舞える性質を持っています。かくしてテクストの体裁(世界における存在様態)は、パラテクストと共に変化し続けることができるのです。

*1:《The Critic as Host》, in Deconstruction and Criticism, ed. Harold Bloom et al., The Seabury Press, New York, 1979, p.219.

*2:https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdfplus/10.1086/447899

*3:『思考の取引』

*4:この表は形式に基づいた分類であり、パラテクストの果たす機能とは無関係であることに注意する必要があります。

*5:「書く」という根源的な行為に射程を広げるのであれば、バビロニアの粘土版やラスコーの壁画についても考える必要があります

*6:現代において同様の研究をするのであれば「電子テクスト」は外すことができません。「タイプ稿」(あるいは「コンピュータ原稿」)についてのジュネットの言及は限定的です。バルザックの欄外注釈や、プルーストの付箋・巻紙(パプロール)といったパラテクストは電子テクストや書物の生成に強く関連しています。

*7:加えて、意図的かどうか判然としませんが、書物が読者の手に渡った後のパラテクストについては言及がありません。本書の言い回しを借りるなら「読者によるペリテクスト」でしょうか。読者の注釈自体がテクストの一部になる流動的な書物の実践は写本時代から存在します。古くはタルムード、近年では「マルジナリア」「痕跡本」といった名前で注目されています。私はこれを「付箋」という言葉に象徴させています。ジュネットがこの点に言及していないこと、また言及しなかったこと自体が明言されていないことは考察に価します。

*8:

電子書籍もブログもいわば、それ自体付箋的なメディアで、「墳墓としての書物」のような、独自の厚みと質量をもつことはないでしょうが、一方で書物のメタファーに還元されず、「本文」を欠き、あちこちから貼りつけられて、瞬時にはがされる付箋の集積は、固有のオーラがあるような気もするのです。

書物と付箋 - パランプセスト

*9:『ヴィジュアル・リーディング―西洋中世におけるテクストとパラテクスト』(2010,松田隆美)では、テクストに付随する挿絵というパラテクストを主題とした書物です。挿絵の起源は写字生の欄外注釈(=「読者によるペリテクスト」)に由来とするという指摘は『スイユ』に著されていない点です。

*10:1979,La Seconde Main ou le travail de la citation

*11:近代以降、特にグーテンベルクの印刷革命以降、書物周辺「ペリグラフィ」に関する考え方に変革が興った

*12:1982,Palimpsestes : La Littérature au second degré

Webの地図を描くことについて

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HC SVNT DRACONES

 このWebという空間は未だ身体的に捉え難い空間です。あらゆる地点へ繋がったリンク、交通網が張り巡らされた都市のなかで、私はどこに向かっているのでしょうか。物理的な空間から開放されたことで、あちこちに移動できる手段を獲得したつもりでしたが、実は興味嗜好の箱庭のなかでただ右往左往しているだけなのかもしれません。私は一面的な思考に陥ってしまったのでしょうか。あるいはWebという都市は最初から幻想だったのでしょうか。

 私達は同じ場所をぐるぐると回る単調な運動に退屈すると、やがてそれに対置する思考が作動します。未開の知識にアクセスしたいという熱い社会に見られるような欲求です。これは人生を変えたいだとか、開眼したいだとか、そんな大げさな考えではありません。見知らぬ土地に赴き、歴史的な名所を巡り、仲間と写真を共有するような、日常生活への香辛料です*1。私達はそれを観光と呼ぶことができるかもしれません。

 では、Webの世界における観光とは何でしょうか。この問いが現在のWebの問題に触れていることは間違いありません。他者の場にアクセスし、その文化に接触し、反省を働かせる。そんなことが今のWebに可能でしょうか。棲み分けの意識は薄く、モノリシックな空間の中で、文化と呼べるものは恐らくプラットフォームをまたぐ程度のものです。Webの文化は未だ現実のそれには到底及んでいません*2*3

 なぜWebの世界で観光という動機が起きないのか。この比喩を転じると、原因の一つを明白に指摘することができます。それは、Webの世界に地図が存在しないということです。目に見えていないだけで、私達一人ひとりにばらばらの指向性がある限り、文化は確たるものとして存在しているはずです。Webの世界における人や情報の流れを可視化することができれば、隠された地図を見つけることができるはずだと確信しています。

recrits.hatenablog.com

 「ブクログの地図案内」はその試みの一端です*4。もし私たちが、地図を眺めて行き先を判断するように、Webの空間を移動することができたら。きっと私達の動線は大きく変わることでしょう*5。このWebの地図のもたらす直接的な効果は、自分自身の立ち位置を明らかにし、目的地までの距離や道筋を明らかにすることです。この地図は既知と未知を峻別してくれるはずです。そして、この地図の副次的な効果は、現在地と目的地の間に連なる大量の無関係な情報へ接触する機会の獲得です。この点について従来メディア(図書館、本屋、百科事典)から得られる教訓は多いはずです。

 最後に、Webの観光について語るのであれば、その水先案内人についても語る必要があります。ここでエクスキューズしなければならないのは、Webの空間を案内するということと、リテラシー教育は無関係だということです。

  プログラミングしたりコンピュータを修理するのではない。というより、飛行機のスチュワードやスチュワーデスのように、どうしたらユーザーが快適な気分になれるかに通じているのだ。もちろん、ユーザーが決めた予算内で創造的に楽しむことも手助けしてくれる。優れた司書のように、ハイパーコープはどんな資料が手に入るかを知っている。それもひと握り程度ではなく雪崩ほどもあるアイデアや情報の扱い方を知っているのだ。また優れた教師のように、アイデアの伝え方も心得ている。森の住人のように探求すべき分野のコースや横道もわかっている。そして学者のように、ひとつかそれ以上の主題に個人的な愛着をもっていて自由時間になるとシステム上でそれらをながめ、研究する。
(...)
 音楽サークルでシンフォニーについて知っているのが当然なように、スポーツサークルで試合結果を知っているのが当然なように、ザナドゥ・サークルではあらゆることを知っているのが当然なのだ。面白い逸話や驚くような事実、並はずれた相互関連性を互いにやりとりし、参考のために手元にあるザナドゥの画面と会話する。多面的な才能をもつ人々のサブカルチャーが生まれる。彼らの特徴は、些細な知識を集めるクイズマニアにも似ている。

テッド・ネルソン『リテラリーマシン ハイパーテキスト原論』p231

 ガイドは綺麗で安全な場所だけを案内するわけではありません。優れたガイドは危険な場所を通過する術を、醜い景色を観る術を、隠された横道の在り処を案内してくれるはずです。単なる余暇の付き合いではない、世界の見方を少しだけ変えるフィルターを持っているのです*6

 これらの主張は「外部へ向かえ」という父性の復権に捉えられるかもしれません。一定程度はその通りですが、この限りではありません。もはやWebは周縁でも外部でもないのですから。未開の知識は都市の中、つまり内なる辺境に潜んでいるはずです。都市がツリーではないことを自覚することが、新たなWebへの一歩です。

"Hypertext" is not a system but a generic term, coined a quarter of a century ago by a computer populist named Ted Nelson to describe the writing done in the nonlinear or nonsequential space made possible by the computer. Moreover, unlike print text, hypertext provides multiple paths between text segments, now often called "lexias" in a borrowing from the pre-hypertextual but prescient Roland Barthes. With its webs of linked lexias, its networks of alternate routes (as opposed to print's fixed unidirectional page-turning) hypertext presents a radically divergent technology, interactive and polyvocal, favoring a plurality of discourses over definitive utterance and freeing the reader from domination by the author. Hypertext reader and writer are said to become co-learners or co-writers, as it were, fellow-travelers in the mapping and remapping of textual (and visual, kinetic and aural) components, not all of which are provided by what used to be called the author.

「The End of Books」By ROBERT COOVER, June 21, 1992

強調は筆者によるもの 

 私はある統一的なWebの地図を作りたいわけではありません。人々が自分自身の地図を描くことで、他の誰かが未だ知らぬ土地を観光できるようになること。コミュニティ独自の地図を描いて、観光客に手渡しすること。そんな様々な地図がセミラティスに繋がり合うことで多様な在り方を認め、誰もが知的好奇心から交流できるようになることを望んでいます。

recrits.hatenablog.com

*1:

  かつては、人々はインド諸国やアフリカ大陸から、命がけで、今ではとるに足りないと思われるような財宝を持ち帰った。アメリカ杉(そこからブラジルという名が由来している)、赤の染料、あるいは胡椒などである。胡椒は、アンリ四世の時代には異常なまでに珍重され、宮廷の人々は、胡椒の粒を菓子鉢にいれておいて噛んだものである。これらの視覚あるいは嗅覚上の刺激、目の享受するあの熱っぽい悦楽、舌を焼く美味などは、一つの文明の感覚中枢の鍵盤に、新しい音域を付け加えたのである。その頃はまだ、この文明は、自分が色褪せてしまったかもしれないなどは考えていなかった。それなら状況を二重に転換してみて、われわれ現代のマルコ・ポーロたちが、この同じ土地から、今度は写真や書物や物語の形で、精神的香辛料、われわれの社会が倦怠のなかに沈みつつあることを自覚しているために、一層烈しく必要を感じている香辛料を持ち帰っていると言い得るであろうか。

クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯〈1〉』p48

 われわれ現代のマルコ・ポーロたちは何を求めているのでしょうか。タイムラインには他人が取ってきた香辛料が運ばれてきます。

*2:これは一人ひとりの意識よりも、プラットフォームやシステムの構造に強く影響を受けて作動している現象です。

*3:Webの観光というのはおそらく一部のストイックな存在に実践されているはずです。例えばかつて存在したコミュニティの跡地や、失われた言説のアーカイブ探しは大変面白いものです。

*4:更に規模を拡張した青写真が「Trace Graph/書物の痕跡 」です。ただし、この試みの辿り着く未来は私には分かりません。

*5:このような反論があるかもしれません。「URLという目印がある」「検索すれば目的地に着けるのだから不要だ」。これらの指摘はもっともです。ただし、これらのスキルは普遍的、生得的なものではありません。云わば学校で教えられるような退屈さの中にあるものです(辞書のひき方、図書館で本を見つける方法)

*6:このガイドについては一昔前のWebの世界に痕跡があります。例えばリンク集と呼ばれるものがあります。リンクを恣意的にまとめたページを用意したり、サイドバーに雑然と並べたりすることがよくありました。これは単なる紹介であったり、コミュニティの所属の表明であることが多いのですが、副次的な作用があります。つまり、ジャンル毎に整理されたものは図書館のような機能があり、知人への大量のリンクはコミュニティの大きさを表現しています。つまり、一人ひとりが、その土地を案内する看板を掲げていたのです。

ブクログの地図案内

ブクログの地図

Booklog graph(https://booklog-graph.web.app/)

 Web本棚サイト「ブクログ」の地図を描いてみました。IDの検索機能で自分の本棚の位置を知ることができます*1。動作確認はChromeのみです。

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全体

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拡大

地図を読む

 せっかく地図を描いたので、少し巡ってみましょう。

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recritsの本棚

 まず自分自身の本棚の位置を確認。あまり一般的でない選書をしているので、中心から外れた位置になると想像していましたが、比較的中心に落ち着いたようです。

 次に、ユーザが最も集まっている活況のエリアについて。影響力の大きい(フォロワーの多い)ユーザは右下辺りに集団を形成しています。本棚を確認すると、レビューの数が多い、あるいはレビュー率が高い傾向があるようです。ユーザ同士の交流であったり、レビューを読み合ったりと、ブクログを有効活用している本棚が多い印象です(意外なことに本の登録数とフォロワーの多さはあまり関係無いようです。数十冊程度でも集団の中心に居るユーザもいます)。

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右下エリア

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右下エリア(拡大)

 その次に目立っているのは右上あたりです。このエリアは非常に分かりやすい傾向があります。講談社文庫、メディアワークス文庫晶文社国書刊行会といった面々が集まっていることが確認できます。出版社の公式本棚と、そもそも本に対して出版社の存在を意識しているユーザが集まってることを意味しています。

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右上エリア

 中心から外れている小さな島々を見るとまた面白い傾向があります。これらの離島は特定ジャンルで固まっている傾向があります。一概に括ることはできませんが、自己啓発系またはマーケティングやビジネスに関する選書の本棚が多いようです。

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いくつかの離島

 最後にピックアップしたいのは左上の半島のように突き出たエリアです。このエリアも非常に解りやすい傾向があります。いわゆるボーイズラブに関する本棚が沢山集まっていることが容易に確認できます。一大ジャンルとして特化し、かつユーザが多いため、将来このエリアが比較的大きな島として独立するポテンシャルを持っています。

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左上の半島

地図を描く

 さて、このようなブクログの地図ですが、単に私の頭の中のイメージを描いたわけではありません。つまり、ある程度の客観性を伴う手段で描いたことを注釈する必要があります。ここではその手法について簡単に解説したいと思います。

 まず自分自身の本棚を起点として、一定のルールで情報をクローリングしました(ブクログさんのサービスに負荷をかけるのは本意ではないので、アクセス頻度はかなりセーブしています)。収集したデータは約2万、全ユーザの1~5%程度ではないかと推定しています。

 ここからユーザをノード、フォロワーの関係をリンクとするグラフデータを作成しました。この大規模なグラフデータを粒子力学の物理シミュレーションにかけたのが下図です。

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グラフデータの力学シミュレーション

  このシミュレーションでは、各ノードに重力や引力・反発力が働き、リンクの関係ではバネの力の関係が働きます。全体が停止状態になることでシミュレーションが終了します。着色はリンクの繋がりが多いものがより明るい色になるように調整しています。

 シミュレーションの結果から更にノードの集合の密度推定を行います。この結果をもとに一定の閾値で等高線を引きました。

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ノードの密度推定

 ユーザが多く集まっているエリアはより明るい色になります。ここでは解りやすいように極端な着色にしていますが、最終的には周りを水色で囲み、色合いを緑にすることで島のようなデザインにしています。

 ノードの表示についてはフォロワーの多さと、ズーム率に応じてインタラクティブな表示になるように設定しています。つまり影響力の大きい本棚が優先して表示されます。地味な実装ですが処理速度の観点と、UIの観点から非常に重要な機能です。例えば、全てのユーザをフラットに表示すると下図のように、UIとしては非常にまずい見た目になってしまいます。

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ノードのフラットな表示

 ノードをクリックすると簡単なユーザ情報と本棚を取得して表示することができます。

参考文献

 グラフデータを地図として表すというアイデアと、その可視化のテクニックについては『ビジュアル・コンプレキシティ ―情報パターンのマッピング』から引用しています。

  また、最終的なデザインはGoogleMapを参考にしています。

www.google.co.jp

*1:全ユーザを網羅しているわけではないのでご了承ください。一応ユーザ数は日々増えています。

「来るべき書物について」図書館の未来

 1997年3月20日、フランス国立図書館

 デリダは「来るべき書物について」という題で書物の未来について語りました。私たちにとって書物とは何か、図書館にとって書物とは何か、電子技術にとって書物とは何か。デリダ晩年の平易な語り口が残されています。

 今私たちがインターネットの未来を論じることは、同時に書物の未来を論じることでもあります。デリダの提言は時を経た今でも、有用な視座となるでしょう。

書物(ビブリオン)の名

 そもそも「書物」のアイデンティティ、統一性とは一体何でしょうか。書物は、書くこと(エクリチュール)でしょうか、書き方でしょうか。印刷、再生技術、作品、あるいは媒体(シュポール、支持体)に関連するものでしょうか。私たちが「書物」という言葉から思い描く、紙を束ねたひとまとまりの冊子体(コデックス)は、既にその原型から大きく変容しています。

書物のこれらの文彩を、たえず取りあげる必要があるでしょう――換喩的で、提喩的で、あるいはたんに隠喩的な動きを。たんに古典的な媒体だけでなく、画面を使うかどうかにかかわらず、電子的、遠隔操作的、「動的な媒体」の操作が行われるほとんど非物質的あるいは仮想的ヴァーチャルな性格をもつ媒体があるのです。

 ビブリオンとは書物を意味するギリシア語で、その語源はパピルスや、リベール(ラテン語)、つまり「書物の媒体」に関わっています。一部の人にはよく知られているように、パピルスは植物のことでした。

 ビブルスはエクリチュールの支えである書字板、手紙、郵便物を意味し、ビブリオフォロスは文字を運ぶ者、郵便配達人、公正証書係、秘書、公証人、書記といった人々を表すようになりました。このような換喩は拡大し続け、「書かれたもの」全般を指すようになります。この換喩は、やがて新しい「書物」にたどり着くことになります。重要なことは書物が常に周縁の変容と共にあったということです。

来るべき図書館

 デリダは、書物の未来は図書館(ビブリオテーク)の未来に通底していると考えました。図書館、書店という存在が本来担っていた役割。それは書物を集めるだけでなく、保管し、安定した状態にすることです。

本を置くこと、置いておくこと、預けること、委託すること、保管することは同時に、本を集め、収集し、まとめ、委ね、修正し、寄せ集め、全体を集め、選り集め、製本しながら本を読むことでもあります。

 来たるべき図書館は単に本を保管する空間ではなく、仕事をする場所であり、文章を読み書きするための空間になる。このとき書物は旧い「書物」にとらわれない、新たな形式のテクストが大半をしめることになるだろうと指摘します。

〔電子テクストは〕もはや作品集[コーパス]でも作品[オプス]でもなく、境界を定めることのできる有限な作品でもなくなったテクストです。いわばもはやテクストを形成しないものの集まりです。限界というもののない国内および国際的なネットワークのもとで、読者たちが共著者となって、活発にあるいは双方向で介入するために提供され、開かれたテクスト処理をする作業そのものなのです。

『骰子一擲』=「来たるべき書物」

 ここでデリダは講演の題「来るべき書物について」について語ります。言うまでもなくこの題はモーリス・ブランショの書物『来るべき書物』に依るものです。『来るべき書物』に収められた「来るべき書物」という章は、ステファヌ・マラルメの『骰子一擲』のために捧げられたテクストです。

 デリダは『骰子一擲』の一節を電子的なエクリチュールで示します。この意図するところは、『骰子一擲』が単なる文字の並びではなく、「書物」に依存しているテクストであること(しかもいまだかつて存在していない書物に依存していること)を示すためでした。

 マラルメは 「書物、精神的な楽器」の冒頭でこう提案します。

一つの提案が私から発せられて……これを私は……わが身に取り戻す。それは大略つぎのような主張である。すなわち、この世界において、すべては一巻の書物に帰着するために存在する

 「来たるべき書物」は大文字の〈書物〉について語られたものですが、同時に〈書物〉としての大文字の〈作品〉について語ったものでもあります。

ブランショはここで〈分かつこと〉と〈とり集めること〉という二重の二律背反的なモチーフをとくに重視しています。この〈とり集め〉という語には、集めること、製本すること、すでにとりあげました収集を意味するコリジェーレという語の意味が蝟集してくるのです。この文章の第二部のサブタイトルの一つは「散乱を通して集中される」と題されています。そしてここで未来の問題、来るべき書物のテーマが告知されるのです。この書物の〈過去〉はまだ私たちに訪れていないのですし、わたしたちはまだそれを思考していないのです。

 散乱しつつ、まとまっていること。この一見矛盾した表現に戸惑ってしまいそうですが、幸いそれに類似する日本語があります。それは「点綴」です。

recrits.hatenablog.com

4本の逃走線

 デリダはインターネットこそが、この大文字の〈書物〉ではないか、といういささか性急な結びに入ります。私はあえてこれに反論したいと思います。インターネットは間違いなく私たちの生活に大きく影響を与えましたが、それは大文字の〈書物〉という理想郷ではありませんでした。技術の一端である「ハイパーテクスト」でさえ、部分的にしか実現していないのです。

recrits.hatenablog.com

  デリダは自身の思想とインターネットの結びつきについて歓んだことでしょう。ただ残念なことにインターネットは理想の地歩を固めているわけではありません。技術的負債、政治的利害、あるいは法の折り合い、その狭間で実現しているのです。そしてなによりもデリダの思想は、技術者たちの腐心と性質の異なるものです(技術者は文学のことなど考えていないのです)。

 それでもなお、デリダが結びに示した〈法〉としての逃走線はいまだ無効でない(むしろ前景化しつつある)視点を含んでいます。なぜなら、これらはたんにインターネットに対する批判ではなく、これまでも、そしてこれからも周縁と共に変容し続ける「新たな書物」に対する逃走線でもあるからです。

  1. 〈聖なるもの〉としての書物を、書物の終焉という厄災のなかから救うこと。新たな組織構造エコノミーを受け入れること。生まれてくる新たな組織構造エコノミーに対して悲観しないこと、しかしあまりにも楽観しないこと。書物の悲劇をもたらさないために、これら二つの幻想に抵抗する必要がある
  2. 書物は再構成されることによって民主化・世俗化し、聖なるものではなくなる。しかし、いずれ再び物神性を持つだろう。希少であることから金儲けの対象にもなるが、同時に聖性が宿るはずだ*1
  3. インターネットは私たちを権力装置から解放する。その代償として「なんでもいいから」の領域が発生するのは自明である。ごく無意味なもの、無能なもの、最悪のものがウェブの空間を塞ぎ、麻痺させ、妨害してしまう。この法=権利と権力のための戦争は新たな形式として公正に判断する必要がある
  4. 書物の変化(特にインターネットの登場)はたしかに怪物的な変化であるが、しょせん二次的(副次的)なものに過ぎない。私たちにとって数百万年の歴史、生物としての自己との関わり、環境との関わり、身体との関わりと比べたらどれほど一瞬の出来事であるか

recrits.hatenablog.com

 

 このエントリーは『パピエ・マシン 上 物質と記憶』の「来るべき書物」を下地にしたものです*2

パピエ・マシン 上 (ちくま学芸文庫)

パピエ・マシン 上 (ちくま学芸文庫)

 

*1:デリダはこれについてロジェ・シャルティエの「書き物の表象」、自著の『グラマトロジーについて』。民主化・世俗化についてはヴィーコ、コンドルという名を挙げるに留めます。

*2:原書「Papier machine」はガリマール社から2001年に出版。邦訳は『パピエ・マシン 上 物質と記憶』と『パピエ・マシン 下 パピエ・ジャーナル』として2005年に筑摩書房から出版

TraceGraph1.0/Webブラウザの拡張機能に関する問題

 普段より長めのGW期間を利用して、ブラウザ拡張機能に手を加えました。当初思い描いていた機能が実現し、これをTraceGraphバージョン1.0としてリリース致しました。

 どこからどこへ巡ったかというWebアクセスのグラフ化のみならず、登録ユーザ同士でのグラフ共有が可能です。仮にコミュニティができれば巨大な白昼夢が見られることでしょう。

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TraceGraph1.0

chrome.google.com

 さて、ここ最近のChromeブラウザ拡張機能の界隈は荒れています。不正な手段による個人情報取得に関する問題は各種メディアによって取り上げられましたが、開発者に対する過剰な技術的制約や不適当な対応については一般には知られていない問題です。これらを一律に対処することができないのは、Googleが一企業、しかも広告企業であること。多大なユーザを抱えていること、そしてその多くが生活レベル、事業レベルでGoogleに依存してしまっていることに無関係ではありません。ここでは開発者が置かれている状況について少し紹介しましょう。

 まず、Googleはブラウザ拡張機能の権限を抑えることを宣言しています。

Migrating to Manifest V3 - Google Chrome

  2019年末にはManifest(アプリケーションに関する仕様)の新たなバージョンをプレビュー版として公開しました。2020年の早い時期には公式リリースすると発表しています。このバージョン改定で注目されているのがwebRequestAPIに関する変更です。webRequestAPIはブラウザを経由したネットワークの通信内容にアクセスし、場合によっては一部書き換えることができる手段の一つです。

 webRequestは非常に人気のあるAPIで、広告ブロッカーで多用される機能の一つです。これによって悪意のある広告や宣伝で満たされた「うるさい」Webの世界に静寂をもたらすことに貢献しています。その一方で、ユーザの見えない場所で秘密裏に情報を抜き取ることができる機能を含んでいることから、本家に目を付けられてしまいました。

 というのは半分建前で、やはり広告企業として自らの収入源でもある広告を制限しようとする動きを退けているのでしょう。この点、広告ブロッカーを利用している一般ユーザが今後何らかの影響を被ることは避けられないはずです(外の世界はこんなにもうるさくなっていたのかと)。この問題について、Firefoxを展開するMozillaは逆の立場を表明しています。

GoogleのExrtension Manifest V3ドラフトに対して、Mozillaが既存の広告ブロッカのサポート継続を表明

 MicrosoftでさえIEを捨てChromiumベースにした移行したWeb標準の時流の中、Mozillaの対抗姿勢はいつまで続けることができるのでしょうか。Manifestを巡る、FirefoxChrome(あるいは開発者とベンダ)の対立によって、Webにおける各々の思想、その問題の本質が少しでも多くの人に知られることを願います*1

 もう一点、拡張機能に関する問題は開発者への不適当な対応です。人気の拡張機能Pushbulletが先日ある記事を公開しました。

blog.pushbullet.com

 読んで字の通りですが、Googleから14日後に拡張機能を削除するという連絡が来たという記事です*2。「アプリの権限が強すぎる」という旨だったため、Pushbullet側は当該の対応をしたものの、結果はリジェクト、詳細は不明な状態だというのです。

 hacker newsでは開発者たちによる投稿がゆうに600を超えました。

Let's guess what Google requires in 14 days or they kill our extension | Hacker News

 ここでもまた問題の本質が錯綜していることが伺えます。発言の一部はこのようなものです

  • 指摘されたのは○○だ、それを直せばよい。リジェクトの何が問題なんだ
  • リジェクトの理由が全く分からない。そもそも人間が見ているのか?単純なルールなのか?(ルールを提示せよ)
  • 判断はAIがやってるんだから、リジェクトの理由なんてそもそも表せない(数字の羅列が返ってくるだけだ)
  • 申請して数日で通ることもあれば数ヶ月粘ることもある。この予想不可能性は致命的
  • Chromeのユーザの規模に対して拡張機能をチェックするメンバが少なすぎる
  • リジェクトを3回繰り返すとアカウントが停止される。Googleに依存している開発者は弱気にならざるえを得ない
  • 私は詳細不明のリジェクトでアカウントが停止された
  • 問い合わせのメールをしても自動返信のロボットとしか会話できない
  • Googleだ。特にChromeを辞めるのは簡単だ。Firefoxへ移行せよ
  • ユーザの個人情報の流出を防ぐのは当然だ。しかしGoogle自身はどうなんだ?

 その他議論は多岐に及んでいます。

 大規模なユーザを抱えたGoogleが(Appleのように)未必の故意を防ぐためにセキュリティを固くするのは、企業の姿勢として「正しい」のですが、その不透明性は無視できるものではありません。GoogleMicrosoftと同じ轍を踏んでしまうのではないかという懸念さえあります。

 

 Googleに非難めいた内容になってしまいましたが、私自身Webの未来に悲観しているわけではありません。国家ではなく企業、領土ではなくプラットフォーム。Webというこの広大な土地の分割はまだ始まったばかりなのですから。

recrits.hatenablog.com

 

*1:拡張機能の問題について独自に移行を済ませたAppleや、そもそもWebに対して別のアプローチをしているFacebookは、この成り行きを遠巻きに眺めていることでしょう。

*2:この宣告は「何らか」の条件で開発者へ届くようです。ランダムに選ばれているのでは?という話もあります。幸い私の手元に不幸の手紙は届いていません。

バベルの電子図書館

 オンライン版「バベルの図書館」が公開されました。「バベルの図書館」とは、ホルヘ・ルイス・ボルヘスが想像した、あらゆる書物が収められている完全無欠な書物空間です。

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library of babel

The Library of Babel is a place for scholars to do research, for artists and writers to seek inspiration, for anyone with curiosity or a sense of humor to reflect on the weirdness of existence - in short, it’s just like any other library. If completed, it would contain every possible combination of 1,312,000 characters, including lower case letters, space, comma, and period. Thus, it would contain every book that ever has been written, and every book that ever could be - including every play, every song, every scientific paper, every legal decision, every constitution, every piece of scripture, and so on. At present it contains all possible pages of 3200 characters, about 104677 books.

About the Library

 「このバベルの図書館では、研究者が調査を行い、アーティストと著述家が霊感を求め、全ての好奇心のある者、ユーモアのある者に対して、その存在の不可思議さを与えます。――要するに、他の図書館と同じです。ここには小文字、空白、コンマ、ピリオドからなるあらゆる1,312,000文字の組み合わせが存在します。したがって、ここには今までに書かれたすべての本、これまでに書かれた可能性のあるすべての本が含まれています――すべての劇、すべての歌、すべての科学論文、すべての法的判断、すべての憲法、すべての聖句……。今のところ3,200文字で可能なあらゆる頁で、100000...(10の4677乗)冊の本があります。」

 これで万物の知は集約され、全ての本が手中に収められたのでしょうか*1

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0-w1-s1-v19「ui.cvsp」Page 1 of 410

 本棚から一冊手にとると、そこには意味をなさない文字列が並んでいます。いくら頁をめくっても変わりません。それもそのはずで、ここに所蔵されている書物は文字のランダムな組み合わせによって構成されているのです。結果として開いた本の「ほぼ」全てはナンセンスに綴られているのです。

 そう聞くと、この図書館が取るに足らない存在であるような気がしてきます。途方も無いノイズの中で私はどのようにして本を探せばよいのでしょうか。

 

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in the beginning the word already existed.

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 「はじめに言葉ありき」(ヨハネ福音書1:1)

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いろは歌

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 「いろは歌

 ここには機械仕掛けの司書が勤めています。全ての本棚、全ての書物、全ての頁、全ての文字の在処を完璧に記憶している*2頼もしい存在です。

 しかし、ここに至って私はテキストを書き記すことの不可思議さについて考えるようになります。私が偶然選んだ言葉は、バベルの図書館に必然的に収録されているのです。創造性とは、未だかつてこの世に存在しないものを生み出すことではなく、一度書かれたテキストを再活性化させる運動ではないか、と仮説することもできます。

 流動的な文字空間をある点で静止させることによって意味を現前させる。新たに何かを生み出すのではなく、配置(記憶、段階)の問題へと。私は短絡回路(ショートカット)を連ねるのです。こうして、言葉とは、ある記号体系の中で、それを一つの記号として言葉で表現することだというトートロジーへ落ち着くのかもしれません。

 バベルの電子図書館の作者Jonathan BesileはこのLibrary of Babelを作り上げる過程で明らかになった技術的な困難さと、その困難を突破する上で浮き彫りになった哲学的な問いを『Tar for Mortar』に著しました。この図書館は実体として存在していないにも関わらず、あらゆるテキストを所有している……という問題です。これは物体として存在していないという比喩ではなく、真に存在していない(電子的な文字がサーバに記録されている訳でもない)という問題です。図書館の内部では、入力に対して排他的に、再現性のある、ランダムな結果を返す、機械仕掛けの歯車が回っているに過ぎないのです。一体、誰が、バベルの図書館を制限することなどできるでしょう。

Tar for Mortar: "The Library of Babel" and the Dream of Totality

Tar for Mortar: "The Library of Babel" and the Dream of Totality

  • 作者:Basile, Jonathan
  • 発売日: 2018/03/13
  • メディア: ペーパーバック
 

 

 空中に浮かぶ「ラピュータ島」にある不可思議な言語機械は、すべての芸術と科学の完璧なる体系の百科全書を製造すると語られます。

 ラガド・アカデミーでは、不可思議な言語機械を作動させる教授が存在している。この機械の二〇フィート四方の組枠のなかには、バルニバルビ語のあらゆる単語を、法、時制、格変化に応じて無秩序に記入した骰子状の木片が、数多く詰め込まれている。三六人の学生が組枠の周囲のハンドルを回転させると、次々と木片の連鎖が新しい文章を生み出し、四人の学生がそれをすばやく記録する。教授は、「書物のなかにある不変化詞バーティクル、名詞、動詞、その他の品詞の相互の分量割合関係にいたるまでを、きわめて厳密に計算して」いて、この機械を五百台完全に運転させれば、「すべての芸術と科学の完璧なる体系」を包含した、百科全書的な書物が製造しうると豪語する。

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『空想旅行の修辞学―『ガリヴァー旅行記』論』四方田犬彦

 

 あらゆる書物を収めた図書館、万物が記された書物という普遍的な発想の歴史を辿ると、ライプニッツキルヒャーマラルメといった西洋哲学における奇異な面々が姿を表すことでしょう。ボルヘス自身がこのように注釈しているのですから。

「バベルの図書館」という物語を書いた最初の人間は、筆者ではない。その歴史および前史に好奇心をいだく者は、レウシップスとラスウィッツ、ルイス・キャロルアリストテレスなどの異質の名前が見出される「スル」誌の五十九号のあるページを調べるとよい。

「八岐の園」

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

 

*1:司書はこう言うでしょう「ここにはあらゆる書物が存在する。ただし、あなたが知っている書物だけだ」

*2:正確には記憶ではなく計算です。それは、すべての文字の組み合わせを表現することができる計算式です