かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

Webの地図を描くことについて

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HC SVNT DRACONES

 このWebという空間は未だ身体的に捉え難い空間です。あらゆる地点へ繋がったリンク、交通網が張り巡らされた都市のなかで、私はどこに向かっているのでしょうか。物理的な空間から開放されたことで、あちこちに移動できる手段を獲得したつもりでしたが、実は興味嗜好の箱庭のなかでただ右往左往しているだけなのかもしれません。私は一面的な思考に陥ってしまったのでしょうか。あるいはWebという都市は最初から幻想だったのでしょうか。

 私達は同じ場所をぐるぐると回る単調な運動に退屈すると、やがてそれに対置する思考が作動します。未開の知識にアクセスしたいという熱い社会に見られるような欲求です。これは人生を変えたいだとか、開眼したいだとか、そんな大げさな考えではありません。見知らぬ土地に赴き、歴史的な名所を巡り、仲間と写真を共有するような、日常生活への香辛料です*1。私達はそれを観光と呼ぶことができるかもしれません。

 では、Webの世界における観光とは何でしょうか。この問いが現在のWebの問題に触れていることは間違いありません。他者の場にアクセスし、その文化に接触し、反省を働かせる。そんなことが今のWebに可能でしょうか。棲み分けの意識は薄く、モノリシックな空間の中で、文化と呼べるものは恐らくプラットフォームをまたぐ程度のものです。Webの文化は未だ現実のそれには到底及んでいません*2*3

 なぜWebの世界で観光という動機が起きないのか。この比喩を転じると、原因の一つを明白に指摘することができます。それは、Webの世界に地図が存在しないということです。目に見えていないだけで、私達一人ひとりにばらばらの指向性がある限り、文化は確たるものとして存在しているはずです。Webの世界における人や情報の流れを可視化することができれば、隠された地図を見つけることができるはずだと確信しています。

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 「ブクログの地図案内」はその試みの一端です*4。もし私たちが、地図を眺めて行き先を判断するように、Webの空間を移動することができたら。きっと私達の動線は大きく変わることでしょう*5。このWebの地図のもたらす直接的な効果は、自分自身の立ち位置を明らかにし、目的地までの距離や道筋を明らかにすることです。この地図は既知と未知を峻別してくれるはずです。そして、この地図の副次的な効果は、現在地と目的地の間に連なる大量の無関係な情報へ接触する機会の獲得です。この点について従来メディア(図書館、本屋、百科事典)から得られる教訓は多いはずです。

 最後に、Webの観光について語るのであれば、その水先案内人についても語る必要があります。ここでエクスキューズしなければならないのは、Webの空間を案内するということと、リテラシー教育は無関係だということです。

  プログラミングしたりコンピュータを修理するのではない。というより、飛行機のスチュワードやスチュワーデスのように、どうしたらユーザーが快適な気分になれるかに通じているのだ。もちろん、ユーザーが決めた予算内で創造的に楽しむことも手助けしてくれる。優れた司書のように、ハイパーコープはどんな資料が手に入るかを知っている。それもひと握り程度ではなく雪崩ほどもあるアイデアや情報の扱い方を知っているのだ。また優れた教師のように、アイデアの伝え方も心得ている。森の住人のように探求すべき分野のコースや横道もわかっている。そして学者のように、ひとつかそれ以上の主題に個人的な愛着をもっていて自由時間になるとシステム上でそれらをながめ、研究する。
(...)
 音楽サークルでシンフォニーについて知っているのが当然なように、スポーツサークルで試合結果を知っているのが当然なように、ザナドゥ・サークルではあらゆることを知っているのが当然なのだ。面白い逸話や驚くような事実、並はずれた相互関連性を互いにやりとりし、参考のために手元にあるザナドゥの画面と会話する。多面的な才能をもつ人々のサブカルチャーが生まれる。彼らの特徴は、些細な知識を集めるクイズマニアにも似ている。

テッド・ネルソン『リテラリーマシン ハイパーテキスト原論』p231

 ガイドは綺麗で安全な場所だけを案内するわけではありません。優れたガイドは危険な場所を通過する術を、醜い景色を観る術を、隠された横道の在り処を案内してくれるはずです。単なる余暇の付き合いではない、世界の見方を少しだけ変えるフィルターを持っているのです*6

 これらの主張は「外部へ向かえ」という父性の復権に捉えられるかもしれません。一定程度はその通りですが、この限りではありません。もはやWebは周縁でも外部でもないのですから。未開の知識は都市の中、つまり内なる辺境に潜んでいるはずです。都市がツリーではないことを自覚することが、新たなWebへの一歩です。

"Hypertext" is not a system but a generic term, coined a quarter of a century ago by a computer populist named Ted Nelson to describe the writing done in the nonlinear or nonsequential space made possible by the computer. Moreover, unlike print text, hypertext provides multiple paths between text segments, now often called "lexias" in a borrowing from the pre-hypertextual but prescient Roland Barthes. With its webs of linked lexias, its networks of alternate routes (as opposed to print's fixed unidirectional page-turning) hypertext presents a radically divergent technology, interactive and polyvocal, favoring a plurality of discourses over definitive utterance and freeing the reader from domination by the author. Hypertext reader and writer are said to become co-learners or co-writers, as it were, fellow-travelers in the mapping and remapping of textual (and visual, kinetic and aural) components, not all of which are provided by what used to be called the author.

「The End of Books」By ROBERT COOVER, June 21, 1992

強調は筆者によるもの 

 私はある統一的なWebの地図を作りたいわけではありません。人々が自分自身の地図を描くことで、他の誰かが未だ知らぬ土地を観光できるようになること。コミュニティ独自の地図を描いて、観光客に手渡しすること。そんな様々な地図がセミラティスに繋がり合うことで多様な在り方を認め、誰もが知的好奇心から交流できるようになることを望んでいます。

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*1:

  かつては、人々はインド諸国やアフリカ大陸から、命がけで、今ではとるに足りないと思われるような財宝を持ち帰った。アメリカ杉(そこからブラジルという名が由来している)、赤の染料、あるいは胡椒などである。胡椒は、アンリ四世の時代には異常なまでに珍重され、宮廷の人々は、胡椒の粒を菓子鉢にいれておいて噛んだものである。これらの視覚あるいは嗅覚上の刺激、目の享受するあの熱っぽい悦楽、舌を焼く美味などは、一つの文明の感覚中枢の鍵盤に、新しい音域を付け加えたのである。その頃はまだ、この文明は、自分が色褪せてしまったかもしれないなどは考えていなかった。それなら状況を二重に転換してみて、われわれ現代のマルコ・ポーロたちが、この同じ土地から、今度は写真や書物や物語の形で、精神的香辛料、われわれの社会が倦怠のなかに沈みつつあることを自覚しているために、一層烈しく必要を感じている香辛料を持ち帰っていると言い得るであろうか。

クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯〈1〉』p48

 われわれ現代のマルコ・ポーロたちは何を求めているのでしょうか。タイムラインには他人が取ってきた香辛料が運ばれてきます。

*2:これは一人ひとりの意識よりも、プラットフォームやシステムの構造に強く影響を受けて作動している現象です。

*3:Webの観光というのはおそらく一部のストイックな存在に実践されているはずです。例えばかつて存在したコミュニティの跡地や、失われた言説のアーカイブ探しは大変面白いものです。

*4:更に規模を拡張した青写真が「Trace Graph/書物の痕跡 」です。ただし、この試みの辿り着く未来は私には分かりません。

*5:このような反論があるかもしれません。「URLという目印がある」「検索すれば目的地に着けるのだから不要だ」。これらの指摘はもっともです。ただし、これらのスキルは普遍的、生得的なものではありません。云わば学校で教えられるような退屈さの中にあるものです(辞書のひき方、図書館で本を見つける方法)

*6:このガイドについては一昔前のWebの世界に痕跡があります。例えばリンク集と呼ばれるものがあります。リンクを恣意的にまとめたページを用意したり、サイドバーに雑然と並べたりすることがよくありました。これは単なる紹介であったり、コミュニティの所属の表明であることが多いのですが、副次的な作用があります。つまり、ジャンル毎に整理されたものは図書館のような機能があり、知人への大量のリンクはコミュニティの大きさを表現しています。つまり、一人ひとりが、その土地を案内する看板を掲げていたのです。