かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

『スイユ : テクストから書物へ』/パラテクストに注意!

 Para-という接頭辞は、近接と距離を、類似と差異を、内部と外部を同時に意味する二重の対照的な接頭辞である(……)それは、境界、敷居、あるいは余白のこちら側であると同時に向こう側でもあり、境位の点では対等でありながらやはり二次的、あるいは補助的、あるいは従属的なものである――ちょうど亭主に対する客、主人に対する奴隷のように。この接頭辞のつくものは、内部と外部を分かつ境界の両側を同時にあらわす、というだけではない。それはまた、境位そのもの、内部と外部を結ぶ浸透膜の役割を果たすスクリーンでもあるのだ。それは、内部と外部を同一視し、外部を内部へ、内部を外部へ横滑りさせ、両者を分離しながら結合させるのである J・ヒリス・ミラー*1*2

LIBER〔甘皮〕 樹皮と木質部のあいだ、cortexとlignumのあいだ、外に晒された思考と節くれだった内面のあいだの薄膜フィルム、それ自体は外にも内にもなく、外にも内にも向いており、外を内に、内を外に向かわせ、外で内を、内で外をめつすがめつする、外と内の境界面インターフェイス。書物とは、どのようなものになろうともーー電子化されようと、非物質化されようと、仮想ヴァーチャル化されようと、はたまた、革皮と金箔で装幀されようと、また、どんなに薄くなろうとも、「読者にとって純粋にして透明なる塊」であり続けるのではなかろうか。これを貫き通ることでわれわれが到り着くのは、ほかでもない、われわれ自身であるのだが、互いに、いや、おのおののうちで、聖刻文字ヒエログリフを相手にするようなものなのだ。 ジャン=リュック・ナンシー*3

  書物に向き合うとき、私達は本文だけを読んでいるわけではありません。外部に晒されたタイトルや著者名、あるいは広告を目にした瞬間から書物の総体に接触しています。ジェラール・ジュネットは書物の本文という明白な領域から、パラテクストという曖昧な領域へ、テクストの地平を拡げます。
 『スイユ:テクストから書物へ』(Seuils,1987)は、超テクスト性三部作を締めくくる一冊です。『アルシテクスト序説』で詩学の再定義とテクスト論への出帆を決意したのち、テクストローグとして『パランプセスト:第二次の文学』と『スイユ:テクストから書物へ』を著します。『スイユ』では、作者名、タイトル、献辞、エピグラフ、序文といった書物の本文を囲繞する多様な「パラテクスト」の収集分類と、そこから帰納されるパラテクストの機能が考察されます。

目次(この書物に書かれていること、書かれていないこと)

 さて、本書はジュネットの該博な知識と横溢する分類癖によって依然と長大な書物に仕上がっています。西洋、特にフランスにおける書物の共時的な分析として非常に有益な記録と言えるでしょう。
 下表は本書で扱われるパラテクストの一覧です*4。これだけ膨大な調査が蒸溜されて、一冊の書物にまとまっているだけでも、本書の成立は称賛に価します。

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パラテクスト一覧

 他方、この一覧表が不完全な状態であることは否めません。これについては著者自身も認識していることで、序文や結語にその弁明があります。少なくとも三つの角度から指摘ができます。

 一つ目は、通時的な分析が等閑に付されている点です。書物揺籃期(15世紀)のインキュナブラや、それ以前の写本についてはほぼ触れられていません*5。ただ、ジュネットが歴史性を軽視しているわけではないことは急いでフォローする必要があります。文学研究において今まで無視されてきたパラテクストという領域をまず明確化するのが本書の役目であり、本書を基準に通時的な研究が始まると主張しています。

 二つ目は、アジア圏の書物について触れられていない点です。東アジア(中国を中心に、日本を含め)はグーテンベルク以前から、形態は違えども書物を大量に生産する仕組みを持っていました。ここには当然、西洋文化と並ぶ重厚な歴史があります。総じて非ヨーロッパ文化圏の書物の分析は十分ではありません。
 三つ目に、網羅性という観点です。本書の試みはパラテクストの一覧表を作ることですが、不足している実践があることは容易に気が付きます。索引、書誌、引用した作者一覧、補足説明用の地図、建物の見取り図。小説であれば登場人物一覧、場所一覧、物語のまとめ。戯曲であれば配役表、衣装、人物の性格等々。つまり挙げればきりがありません。特に「翻訳」「連載による発表」「挿絵」という重要なパラテクストについては、調査不足(力不足)により含めることが出来なかったとジュネットは悔恨しています*6*7*8*9

序論(パラテクスト=ペリテクスト+エピテクスト)

 ジュネットはパラテクストの体制について大胆な定式を与えます。パラテクストは書物に物理的に付随している場合と、そうでない場合に分類ができる、と。物理本に対しては便宜的な分類と言えます(物理本でない形態、たとえば電子書籍においてこの定式の妥当性は留保する必要がありそうです)。

ペリテクストから、エピテクストを区別する公準は、原理的に、純粋に空間的なものである。同じ書物のなかのテクストに物質的に付随しておらず、潜在的には無制限の物理的かつ社会的空間のなかをいわば自由自在に流通しているあらゆるパラテクスト要素が、エピテクストなのだ。エピテクスト=書物ノ外ナラドコデモ。

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パラテクスト=ペリテクスト+エピテクスト

 「ペリ」という接頭辞は、『第2の手、または引用の作業』(アントワーヌ・コンパニョン)*10で創作された述語「ペリグラフィ périgraphie」(書物周辺)に由来します*11。『パランプセスト』(ジェラール・ジュネット*12において、超テクスト性の一形態として示唆した「パラテクスト」を、コンパニョンは「ペリグラフィ」と換言しました。ジュネットはこの語を踏襲し分類表に取り込んだようです。

 ペリグラフィ(書物周辺)とは、書物を空間として表現したものです。活版印刷の別称「人工書記」は、ここで新たな表現を生み出します。あえて古代のテクストと比較するなら、それまでオーラリティを基にした「線的モデル」であった言葉は、エクリチュールとしての「空間的モデル」へと移行しました。今や当たり前となったタイトル、著者、印刷者、刊行日、奥付、その他装飾の数々が加えられることになります。書物は一つのオブジェとなりました。その中でも特に「タイトル」は、本文に対する強い隣接性によって書物の固有名詞となります。また、「目次」と「索引」は書物空間を探索するための地図となりました(ラムスはこれを徹底的に推し進め、書物の内容を樹形図、グラフ、フローチャートで示しました)。
 こうしたアイコン的な性質は「ダイアグラム」と「イメージ」に分割できます。ダイアグラムはT1-A2〔テキスト−読者〕の関係で、書誌に象徴されるような、自身のテキストを補強するものであったり、自らの主張を読者に理解させるための構成、編集、文献の渉猟の結果を示すものです。イメージはA1-A2〔著者-読者〕の関係で、これは共謀的、同族的関係であったり、その者たちの間での血統を示すための「挨拶の文句」(タイトル、エピグラフ)です。「イメージ」という言葉の通り、何らかのマークや写真によって示されることが多く、極めてナルシシックで想像的な関係と言えるでしょう。

『第二の手、または引用の作業』引用の系譜学 - かかれもの(改訂版)

 パラテクストは、ペリテクストとエピテクストの境界をやすやすと超えて行きます。例えばエピテクストがペリテクストに移ることもあれば(これは明確に格上げを意味します)、ペリテクストだったものが除外されることもあります(これは情況的なテクストであることが多いようです)。この特徴はパラテクストの存在意義そのものに関連する、重要な性質です。

訳者あとがき(パラテクストの体制)

 さて、具体的なパラテクストは空間的、時間的、物質的、語用論的な体制、そしてそのテクストが果たす機能によって格子状に分類することができます。このルールについては野暮を嫌ってかジュネット自身による詳しい説明は省略されています。しかし、幸い訳者あとがきでこれについて丁寧に補完されています。本文と併せて読むことで、本書の目指している主題の骨格がより明確になります。

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 本書『スイユ』の主題は、これらの特徴を複合したテクストの例示であり、それらのテクストが読者へ及ぼす結果の考察と言えるでしょう。

結語(パラテクストの機能)

 パラテクストが書物外全てを対象とするのであれば、パラテクストの形式は限りなく細分化し、また拡大し続けます。そしてその機能は強く個別の事象に依っています。斯くして、全てを網羅した一覧表を作るなどという試みは失敗に終わることでしょう。

 しかし、ジュネットはこの膨大な研究を総合して、パラテクストの有する、ある共通の機能を発見します。結語ではこの共通の機能について語られます。
 改めてパラテクストとは何か。ジュネットは、パラテクストは著者と読者の間にある「水位」を保つための、水門の役割を果たしていると説明します。例えば「タイトル」は、テキスト全体に対して一つの意味を与える意図がありますが、それだけでなく「著者がそのテキストをそう呼ばせることを決意した」ということも意味しています。これによって書物は本文ではなく、タイトルという書物の欠片として世の中に流通することになります。現に大衆はある一つの作品を指し示すときに、専らタイトルをインデックスとしています。あるいはジョイスの『ユリシーズ』は、別の機能を大衆に提示しています。この物語が「ユリシーズ」というタイトルを冠することによって初めて、私達はそこにホメロスの影を感じることができます(イペルテクスト性)。これらは意図通りに解釈してもらうための、作者の配慮に他なりません。ジュネットは数年に渡るパラテクストの研究で、アプリオリに自明でなかった点として、この作者の偉大な職業的良心について言及します。作者の自己満足的な領域ではないかという推測とは裏腹に、彼らは総じてパラテクストを通じて、より「高貴な」成功を目指している、というのです。

 テクストそれ自体が時間的にも空間的にも固定されている以上、テクストは大衆の変化に即応することができません。これに対してパラテクストは、より柔軟に、より自在に、常に過渡的(トランジトワール)に振る舞える性質を持っています。かくしてテクストの体裁(世界における存在様態)は、パラテクストと共に変化し続けることができるのです。

*1:《The Critic as Host》, in Deconstruction and Criticism, ed. Harold Bloom et al., The Seabury Press, New York, 1979, p.219.

*2:https://www.journals.uchicago.edu/doi/pdfplus/10.1086/447899

*3:『思考の取引』

*4:この表は形式に基づいた分類であり、パラテクストの果たす機能とは無関係であることに注意する必要があります。

*5:「書く」という根源的な行為に射程を広げるのであれば、バビロニアの粘土版やラスコーの壁画についても考える必要があります

*6:現代において同様の研究をするのであれば「電子テクスト」は外すことができません。「タイプ稿」(あるいは「コンピュータ原稿」)についてのジュネットの言及は限定的です。バルザックの欄外注釈や、プルーストの付箋・巻紙(パプロール)といったパラテクストは電子テクストや書物の生成に強く関連しています。

*7:加えて、意図的かどうか判然としませんが、書物が読者の手に渡った後のパラテクストについては言及がありません。本書の言い回しを借りるなら「読者によるペリテクスト」でしょうか。読者の注釈自体がテクストの一部になる流動的な書物の実践は写本時代から存在します。古くはタルムード、近年では「マルジナリア」「痕跡本」といった名前で注目されています。私はこれを「付箋」という言葉に象徴させています。ジュネットがこの点に言及していないこと、また言及しなかったこと自体が明言されていないことは考察に価します。

*8:

電子書籍もブログもいわば、それ自体付箋的なメディアで、「墳墓としての書物」のような、独自の厚みと質量をもつことはないでしょうが、一方で書物のメタファーに還元されず、「本文」を欠き、あちこちから貼りつけられて、瞬時にはがされる付箋の集積は、固有のオーラがあるような気もするのです。

書物と付箋 - パランプセスト

*9:『ヴィジュアル・リーディング―西洋中世におけるテクストとパラテクスト』(2010,松田隆美)では、テクストに付随する挿絵というパラテクストを主題とした書物です。挿絵の起源は写字生の欄外注釈(=「読者によるペリテクスト」)に由来とするという指摘は『スイユ』に著されていない点です。

*10:1979,La Seconde Main ou le travail de la citation

*11:近代以降、特にグーテンベルクの印刷革命以降、書物周辺「ペリグラフィ」に関する考え方に変革が興った

*12:1982,Palimpsestes : La Littérature au second degré