かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

「来るべき書物について」図書館の未来

 1997年3月20日、フランス国立図書館

 デリダは「来るべき書物について」という題で書物の未来について語りました。私たちにとって書物とは何か、図書館にとって書物とは何か、電子技術にとって書物とは何か。デリダ晩年の平易な語り口が残されています。

 今私たちがインターネットの未来を論じることは、同時に書物の未来を論じることでもあります。デリダの提言は時を経た今でも、有用な視座となるでしょう。

書物(ビブリオン)の名

 そもそも「書物」のアイデンティティ、統一性とは一体何でしょうか。書物は、書くこと(エクリチュール)でしょうか、書き方でしょうか。印刷、再生技術、作品、あるいは媒体(シュポール、支持体)に関連するものでしょうか。私たちが「書物」という言葉から思い描く、紙を束ねたひとまとまりの冊子体(コデックス)は、既にその原型から大きく変容しています。

書物のこれらの文彩を、たえず取りあげる必要があるでしょう――換喩的で、提喩的で、あるいはたんに隠喩的な動きを。たんに古典的な媒体だけでなく、画面を使うかどうかにかかわらず、電子的、遠隔操作的、「動的な媒体」の操作が行われるほとんど非物質的あるいは仮想的ヴァーチャルな性格をもつ媒体があるのです。

 ビブリオンとは書物を意味するギリシア語で、その語源はパピルスや、リベール(ラテン語)、つまり「書物の媒体」に関わっています。一部の人にはよく知られているように、パピルスは植物のことでした。

 ビブルスはエクリチュールの支えである書字板、手紙、郵便物を意味し、ビブリオフォロスは文字を運ぶ者、郵便配達人、公正証書係、秘書、公証人、書記といった人々を表すようになりました。このような換喩は拡大し続け、「書かれたもの」全般を指すようになります。この換喩は、やがて新しい「書物」にたどり着くことになります。重要なことは書物が常に周縁の変容と共にあったということです。

来るべき図書館

 デリダは、書物の未来は図書館(ビブリオテーク)の未来に通底していると考えました。図書館、書店という存在が本来担っていた役割。それは書物を集めるだけでなく、保管し、安定した状態にすることです。

本を置くこと、置いておくこと、預けること、委託すること、保管することは同時に、本を集め、収集し、まとめ、委ね、修正し、寄せ集め、全体を集め、選り集め、製本しながら本を読むことでもあります。

 来たるべき図書館は単に本を保管する空間ではなく、仕事をする場所であり、文章を読み書きするための空間になる。このとき書物は旧い「書物」にとらわれない、新たな形式のテクストが大半をしめることになるだろうと指摘します。

〔電子テクストは〕もはや作品集[コーパス]でも作品[オプス]でもなく、境界を定めることのできる有限な作品でもなくなったテクストです。いわばもはやテクストを形成しないものの集まりです。限界というもののない国内および国際的なネットワークのもとで、読者たちが共著者となって、活発にあるいは双方向で介入するために提供され、開かれたテクスト処理をする作業そのものなのです。

『骰子一擲』=「来たるべき書物」

 ここでデリダは講演の題「来るべき書物について」について語ります。言うまでもなくこの題はモーリス・ブランショの書物『来るべき書物』に依るものです。『来るべき書物』に収められた「来るべき書物」という章は、ステファヌ・マラルメの『骰子一擲』のために捧げられたテクストです。

 デリダは『骰子一擲』の一節を電子的なエクリチュールで示します。この意図するところは、『骰子一擲』が単なる文字の並びではなく、「書物」に依存しているテクストであること(しかもいまだかつて存在していない書物に依存していること)を示すためでした。

 マラルメは 「書物、精神的な楽器」の冒頭でこう提案します。

一つの提案が私から発せられて……これを私は……わが身に取り戻す。それは大略つぎのような主張である。すなわち、この世界において、すべては一巻の書物に帰着するために存在する

 「来たるべき書物」は大文字の〈書物〉について語られたものですが、同時に〈書物〉としての大文字の〈作品〉について語ったものでもあります。

ブランショはここで〈分かつこと〉と〈とり集めること〉という二重の二律背反的なモチーフをとくに重視しています。この〈とり集め〉という語には、集めること、製本すること、すでにとりあげました収集を意味するコリジェーレという語の意味が蝟集してくるのです。この文章の第二部のサブタイトルの一つは「散乱を通して集中される」と題されています。そしてここで未来の問題、来るべき書物のテーマが告知されるのです。この書物の〈過去〉はまだ私たちに訪れていないのですし、わたしたちはまだそれを思考していないのです。

 散乱しつつ、まとまっていること。この一見矛盾した表現に戸惑ってしまいそうですが、幸いそれに類似する日本語があります。それは「点綴」です。

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4本の逃走線

 デリダはインターネットこそが、この大文字の〈書物〉ではないか、といういささか性急な結びに入ります。私はあえてこれに反論したいと思います。インターネットは間違いなく私たちの生活に大きく影響を与えましたが、それは大文字の〈書物〉という理想郷ではありませんでした。技術の一端である「ハイパーテクスト」でさえ、部分的にしか実現していないのです。

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  デリダは自身の思想とインターネットの結びつきについて歓んだことでしょう。ただ残念なことにインターネットは理想の地歩を固めているわけではありません。技術的負債、政治的利害、あるいは法の折り合い、その狭間で実現しているのです。そしてなによりもデリダの思想は、技術者たちの腐心と性質の異なるものです(技術者は文学のことなど考えていないのです)。

 それでもなお、デリダが結びに示した〈法〉としての逃走線はいまだ無効でない(むしろ前景化しつつある)視点を含んでいます。なぜなら、これらはたんにインターネットに対する批判ではなく、これまでも、そしてこれからも周縁と共に変容し続ける「新たな書物」に対する逃走線でもあるからです。

  1. 〈聖なるもの〉としての書物を、書物の終焉という厄災のなかから救うこと。新たな組織構造エコノミーを受け入れること。生まれてくる新たな組織構造エコノミーに対して悲観しないこと、しかしあまりにも楽観しないこと。書物の悲劇をもたらさないために、これら二つの幻想に抵抗する必要がある
  2. 書物は再構成されることによって民主化・世俗化し、聖なるものではなくなる。しかし、いずれ再び物神性を持つだろう。希少であることから金儲けの対象にもなるが、同時に聖性が宿るはずだ*1
  3. インターネットは私たちを権力装置から解放する。その代償として「なんでもいいから」の領域が発生するのは自明である。ごく無意味なもの、無能なもの、最悪のものがウェブの空間を塞ぎ、麻痺させ、妨害してしまう。この法=権利と権力のための戦争は新たな形式として公正に判断する必要がある
  4. 書物の変化(特にインターネットの登場)はたしかに怪物的な変化であるが、しょせん二次的(副次的)なものに過ぎない。私たちにとって数百万年の歴史、生物としての自己との関わり、環境との関わり、身体との関わりと比べたらどれほど一瞬の出来事であるか

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 このエントリーは『パピエ・マシン 上 物質と記憶』の「来るべき書物」を下地にしたものです*2

パピエ・マシン 上 (ちくま学芸文庫)

パピエ・マシン 上 (ちくま学芸文庫)

 

*1:デリダはこれについてロジェ・シャルティエの「書き物の表象」、自著の『グラマトロジーについて』。民主化・世俗化についてはヴィーコ、コンドルという名を挙げるに留めます。

*2:原書「Papier machine」はガリマール社から2001年に出版。邦訳は『パピエ・マシン 上 物質と記憶』と『パピエ・マシン 下 パピエ・ジャーナル』として2005年に筑摩書房から出版