かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

文学空間逍遥

一冊の書物は、流星だ。散り散りになって、幾千の隕石と化す流星だ。その隕石たちのあてどない流れに挑発され、あらたな書物たちが衝突し、再開し、にわかに凝固し、未刊の形質たちは思い思いの線を描き、増補版や改訂版、改正版といった諸々の版が繰り出されてゆくだろう。そう、そこに巻き起こるのだ、広大無辺な星の流れが。

もしテクストが本当に好きであるならば、時折は、(少なくとも)二つのテクストを同時に愛することをどうしても望むはずなのだ。

ばらばらに離れた、不連続な諸々の要素を、連続し、一貫した全体へと転じること、それらの諸要素を 集め、それらを一緒に包含し(一緒に取り扱い)、つまりは、それらを読むことが問題になるやいなや、エクリチュールという仕事は、まさに〈再び書くこと〉と同じになるだろう。エクリチュールとは、常に、そういうものではないだろうか。再び書くこと、さまざまな端緒から出発してひとつのテクストを紡ぐこと。それは、それらの端緒を整理し、互いに結びつけることであり、現前している諸々の要素の間に起こる接合や転移を実現することである。エクリチュールのすべてが、コラージュと注解であり、引用と注釈なのだ。

重要なのは二つの事項をむすびつける過程なのだ。

 ユーザが事項間をむすぶ検索経路を作るときには、その経路に名前をつけてコード表に挿入し、キーボードをたたく。目の前の隣り合った画面に、結合される二つの事項の内容が映し出される。各々の下部に空白のコード記入用の欄が幾つかあり、各々そのうちの一つを指すようにポインタがセットされる。キーを一つたたけば、両事項は永久に結合され、それぞれのコード記入欄にはコード名称が現れる。コード記入欄には、肉眼では見えないが、光電管で読み取るための一組の点群が書き込まれる。すなわち事項ごとに、これらの点群の位置によって相手の事項の索引番号が指示されるわけだ。

 以後はいつでも、こうした事項の一つを映し出しているときに、ただ対応するコード欄の下のボタンを押すだけで、もう一つの事項を即座に呼び出すことができる。さらに、多数の事項が結合されて、一つの検索経路を作っている場合には、本のページをめくるときと同様にレバーを動かして、緩急自在に、それらの事項を次々に眺めていくことができる、これはあたかも、広く散らばった情報源から事項群を物理的に集めて、新しい本を作るようなものである。いや、むしろ新しい本というより、どの事項も多数の検索経路に含まれうるので、それ以上のものといえるのだ。

これらのテクストの摩擦は、実際のところ、二台のタイプライターの間に起こる摩擦でなくて何だろうか。一本のインクリボンが展開されていき、それが、別のもう一本のインクリボンを刺激し、そこに、滑ることのない接触によって、運動を伝達する。第二のリボンは、今度は、別のリボンを動員し、以下同様にして、すべての書物を始動させるに至る。それらは、摩擦を媒介として、最初の書物を反復するのである。

 伯父のこの最新式のアメリカ製の書き物机は、なにか新しい物の象徴としてそこにある。その新しさとは、さまざまに考えることができようが、まず見落とすことができないのは、そこに体現されている機能的に完ぺきな分類方式である。機械仕掛けによって無数の変容をとげてゆくのは、すべて引き出しなのである。これら引き出しは、どんな書類でも、処理できる無限の収納スペースを実現する。しかも、そこに収納されるのはもはや、統一性を保持した書物という単位ではなく、書物の断片としての書類の束である。ベンヤミンの『一方通交路』で、昨今の学者の研究方法を観相学的に判読してみせる。ある学者が一冊の本を書こうとする場合、その書物の内容にかんするポイントは、その著者のカード・ボックスにすべておさまっている。それをもとに、彼は一冊の本を書き上げる。別の研究者は、その書物を読者として読み、研究したうえで、そのポイントをまた自分のカード式索引ボックスに収納する。書物は、もはや今日、ふたつのカード式索引システムのあいだをとりもつ、一介の「周旋屋」にすぎなくなってしまった。ベンヤミンのひそみにならえば、カールの伯父の機械仕掛けの書き物机において、最新型の分類システムに分類され、収納されるのが書物でないのは、けっして偶然などではない。ここで、書類とカードは、書物という統一体の断片として等価である。意味するものの統一体として書物は、意味されるものの超越的先行を前提にしてきたが、その統一性が断片化しているのである。最新の分類システムは、本の統一性という理念を分解してしまうのだ。

電子空間はテキストの独立性よりもむしろ連関を強調することで、参照指示と暗示の可能性を新たなるものに書き換えてしまう。電子テキストでは或る一つのパッセージが別のパッセージを参照しているだけでなく、テキストが折れ曲がってどんな二つのパッセージでも一緒にして隣合わせて読者に提示することができる。また、或るテキストが他のテキストを暗示するだけでなく、別のテキストのなかに入り込んできて一つの視覚的な相互的テキストとして読者の目の前に現れることも可能である。相互テキスト的な関係は印刷のなかでも至るところで生じている。それは小説やゴシック・ロマンスや大衆雑誌や百科全書や文法書や辞書などにおいても生じている。しかし、電子空間によってそれまでいかなるメディアにも可能でなかったような仕方で相互テキスト性を視覚化することが可能となるのである。

古典ラテン語において、compilare〔compile(編集する)の語源〕という語には、略奪する、盗み取る(対象は主として人や建築物であり、テクストについての言及はとくにない)という否定的な意味であった。だが、七世紀までには、セビリァのイシドルスがcompilatorを、「ちょうど顔料を作る人が多くのさまざまな[色素]を乳鉢の中ですりつぶすように、他の人々の言葉を己の言葉と混ぜ合わせる者」という道徳的に中立的な表現を用いて定義した。十三世紀までには、compilareという語は、他のいくつかの語(excerpere〈抜粋する〉、colligere〈結び合わせる〉、deflorare〈花を摘み取る〉)と置き換え可能なものとして効果的に用いられ、手持ちの原典から抜粋集を作ったり、「花々」(すなわち最も優れた断片)を精選したりすることを意味するようになった。

したがって、われわれは、読書によっては文章の語り口や物語の流暢な話し振りや流れるような言語活動の自然さによって眼にみえないように熔接された滑らかな表面しか捉えられない意味作用significationの塊を、小地震のようなやり方で切り離し、テキストにひびを入れるだろう。原テキストの記号表現は切り分けられ、隣り合った短い断片の連続となるだろう。

コンピュータ・テクノロジーによってこうした中断はもっと精緻な形でなされるようになり、時間もかからなくなった。電子図書館においては、書き手は自分が書いているテキストから転じてたやすく別のテキストを読むことができる。自分自身のテキストと、それとは別のテキストという区別はぼやけ始めている。書き手は何であれば読んでいるテキストから自分の文書へカット・アンド・ペーストすることができるからだ。充分に仕上がったハイパーテキストでは、こうした区別は消え失せてしまう。書き手が言語的観念とディスプレイ上でそれを視覚的に表現したものの間をすばやく移動するのであるから、コンピュータは書くという過程そのものをスピード・アップする。書き手の頭の中にある観念のネットワークは、コンピュータ上の表現に融け込む。こうして出来上がった構造は、今度は逆にこのコンピュータや別のコンピュータの中に蓄積されたあらゆるテキストに融合するのである。プラトンが示した内在的記憶と外在的記憶の間の区別――あらゆるライティングの根底にある区別――を、まるでコンピュータが失くしてしまうことができるかのようだ。

 この関係性の読書(二つもしくはそれ以上のテクストを相互に関連させながら読むこと)は、おそらく、流行遅れの言い方かも知れないが私のいわゆる開かれた構造主義を実践する機会となるだろう。というのも、この分野には二つの構造主義があるからだ。一つはテキストの閉域性を前提とし内的構造の解読を目指す構造主義で、これはたとえば、ヤーコブソンレヴィ=ストロースによる〔ボードレール詩篇〕「猫たち」の有名な分析に認められる構造主義である。もう一つはたとえば〔同じくレヴィ=ストロースの〕『神話学』の構造主義で、そこでみとれるのは、いかにしてあるテクスト(ある神話)は「別のテクスト(別の神話)を読む」ことが――こちらが協力してやれば――可能であるか、ということだ。

われわれが求めているのは、一つのエクリチュール(本書では、古典的な読み得るエクリチュールとなるであろう)の立体画的空間をスケッチすることである。複数性を肯定することに基づいた注釈は、したがって、テキストを《尊重》して作業することはできない。原テキストは、自然な分割(統辞論的、修辞学的、逸話的)を何ら考慮することなく、たえず砕かれ、中断されるであろう。目録や評釈や脱線がサスペンスの途中に入り込んだり、動詞とその目的補語、名詞とその属詞を切り離したりすることさえあるだろう。注釈の作業は、それが全体性というイデオロギーから脱するや否や、まさにテキストを虐待し、テキストの発言を遮ることになるのだ。しかし、否定されているのは、テキストの質(本書では、比類のない)ではなく、その《自然らしさ》なのである。

 このことから、単純に、引用文は間テクストの自明な操作子であると理解される。引用は、読み手の能力に訴えかけて、読解という装置を始動させる。読解という装置は、ひとつの引用のうちに、二つのテクスト――その関係は、等価でもなければ、単なる反復でもない――が突きあわせられる形で置かれるやいなや、ある作業を行うはずである。しかし、この作業は、テクストに内在するひとつの現象に依存している。すなわち、引用は、独特な仕方でテクストを掘削し、それを切開し、それを隔てているのである。そこには意味の探求が存在し、読解がその探求を進めていくのである。つまり、それは、ひとつの穴であり、ポテンシャルを秘めたひとつの差異、ひとつの短絡といったものだ。現象とは差異であり、意味とはその差異の解決である。

複合文書の論理は単純である。文書の所有権の概念に基づいているのだ。文書にはすべて所有者がいる。所有者以外の誰も修正できなければ、この文書の一体性は保持される。

 しかし、所有者以外でも好きなだけそこから引用して別の文書をつくることはできる。このメカニズムを〈引用窓〉または〈引用リンク〉と呼ぶ。新しい文書の「窓」を通して、もとの文書の一部を見ることもできる。これを〈トランスクルージョン〉と呼ぶ。

 窓が付けられた(あるいは窓が開いた)文書の窓とは、文書間のリンクのことである。窓を通じて引用されているデータはコピーされない。引用リンクのシンボル(またはこれと本質的に同じもの)が引用しているほうの文書に置かれるだけである。こうした引用はもとの文書のコピーをつくるわけではないので、もとの文書の一体性、独自性、所有権になんの影響も与えない

 

所収

  • 『思考の取引――書物と書店と』ジャン=リュック・ナンシー
  • 『パランプセスト―第二次の文学』ジュラール・ジュネット
  • 『第二の手、または引用の作業』アントワーヌ・コンパニョン
  • 「われわれが思考するごとく」ヴァネヴァー・ブッシュ(『思想としてのパソコン』西垣通
  • 『書物の図像学―炎上する図書館・亀裂のはしる書き物机・空っぽのインク壺』原克
  • 『ライティングスペース : 電子テキスト時代のエクリチュール』ジェイ・デイヴィッド ボルター
  • 『情報爆発』アン・ブレア
  • 『S/Z』ロラン・バルト
  • 『リテラリーマシン ハイパーテキスト原論』テッド・ネルソン