かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

Project Xanadu キーワード

キーワード

Xanadoc

Project Xanaduの思想で構成された文書のこと。

Xanadocは文書が双方向で接続されている。

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EDL

"Edit Decision List"の略。素材を寄せ集めてコンテンツを作る仕組みを表す。

XanadocはEDLの持つ2つの要素から構成される。

  • SPANS … 引用するコンテンツ
  • XANALINKS … 何を引用しているかを表すメタ情報

EDLは元々ビデオ業界の用語(ポスプロで行うビデオ編集のこと)。

http://xanadu.com/xuEDL.html

ある文書に対して独立して存在する付加情報テーブルのこと。

次のような情報を付加することで、文書の接続関係に意味を与える。

  • relations(関係)
  • properties(特性)
  • structures(構造)
  • assemblies(組み立て)
  • arrangements(事前準備)

Xanadocは複数のXanalinkと複数のSpanによって生成される。

http://xanadu.com/xanaLinks.html

XanaduSpace

Xanaduの設計思想を表すデモ。

EDLを基にした3次元のXanadu空間を生成することができる。

ZigZagのドキュメント構造を備えている。

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http://xanadu.com/xuspViewer.html

ZigZag

テッド・ネルソンが提唱しているシステム構成のこと。

現在主流である情報の管理方法であるリスト構造やグリッド構造、ツリー構造とは異なるグラフ。

ユーザがより簡単に情報をコントロールするためのパラダイムとされる。

http://xanadu.com/zigzag/

GZigZag

Hyperstructure GroupによるZigZagの実装コードネームのこと。

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http://cybertext.hum.jyu.fi/articles/128.pdf

http://www.nongnu.org/gzz/gi/gi.html

http://www.xanadu.com.au/zigzag/

http://zzstructure.uniud.it/docs/pdf-pub/2004-tr-Fallenstein-Hyperstructure_Computers.pdf

Transcopyright

コンテンツのコピーライトの別称。

Webにおける著作権の問題をXanaduモデルで解決することができるという。

仕組みを簡単に以下のように説明している。

  • 新しいファイルタイプである"VLIT", Virtual Literary Formatを使う
  • サーバは既存のプロトコルでユーザの要求を返す
  • 編集(者)はVLITファイルを使用する
  • ブラウザプラグインによってVLITファイルを基にコンテンツの相互比較を行う

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http://xanadu.com/tco/index.html

http://www.xanadu.com.au/ted/transcopyright/transcopy.html

http://xanadu.com/nxu/index.html

サブキーワード

TransQuoter

TransLit プロジェクトがリリースしたソフトウェアのこと。

複数のコンテンツから引用して、1つのHTMLファイルを生成する。

設計思想はProject Xanadoに従っている。

http://www.xanadu.com.au/transquoter/

popcorn

mozillaが開発したWebコンテンツを素材にした動画編集アプリのこと。

既に開発は終了しているが、ソースコードgitHubで公開されている。 

リンク

http://xanadu.com/

http://www.xanadu.com.au/

http://ted.hyperland.net/

http://transliterature.org/

Xanadu Basics

 ハイパーテキストを追っているとProject Xanaduに出会いました。

Project Xanadu was the first hypertext project, founded in 1960 by Ted Nelson. Administrators of Project Xanadu have declared it an improvement over the World Wide Web, with mission statement: "Today's popular software simulates paper. The World Wide Web (another imitation of paper) trivialises our original hypertext model with one-way ever-breaking links and no management of version or contents. 

Project Xanadu - Wikipedia

 ザナドゥ計画とは、あるテキストと別のテキストの間にある引用・被引用の関係を明らかにすることを構想したシステムです。提唱者であるテッド・ネルソン曰く今日のWWWはハイパーテキストモデルを単純化したものに過ぎません。

 1960年当時は、この計画に慧眼な響きがあったのかもしれませんが、50年以上経過した現在ではどう評価されているのでしょう。ギーグしか気を惹かない小噺になってしまった感があります。

 とはいえ、2014年には「OpenXanadu」を公開し、最近ではYoutubeのチャンネルで頻繁に動画をアップロードしています。テッド・ネルソンは未だ技術的な意義を認めて活動を続けているようです。


I realize now.

What this has to be in retrospect my most important idea.

Is this technology? No, I think it's literature.

 ――Ted Nelson

 

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Xanadu Basics

動画視聴ページを作成しました。字幕をクリックするとに動画をシークさせることができます。

失速する読書(原=読者、間テクスト)

 文学作品を評価するとき、そこには評者の主観的な背景がつきまといます。一切の主観を放棄してテクストに対峙する「透明な読み」を、私たちは誰一人として心得ていないのです。
 できる限り主観を排した文学批評を目指したのが、ロシアに端を発するフォルマリズム(形式主義)、そしてそれに連なる米国のニュー・クリティシズム(新批評)です。
 いや、こうした大局的な流れがあったとして、だから何なのでしょう。文学の客観的な読み方が世間に浸透しているとは到底思えません。未だ文学批評は個人的な見解に聞こえるのです。そこには普遍的な価値を認めるための共通の尺度はないのです。

 客観的な読みが一般に浸透しないのは、未だ「個人的な読み」が社会で一定の評価を得ているからでしょう。

 言語学者のミカエル・リファテール(Michael Riffaterre)は「原=読者」(archi-lecteur)という方法論を構想しました。

リファテールは「読者」の範囲をテクストを読み、それに何らかの反応を示す不特定多数の人たちの総計(平均ではない)として考えている。テクストの刺戟因をすくい上げるための道具となるさまざまな読者の総計、これが彼のいう「原=読者」(archi-lecteur)である。

ワードマップ『現代文学理論 テクスト・読み・世界』p.182 

 「原=読者」の読みなり解釈なりが仮に間違ったものであろうと、偏見に満ちたものであろうと問題は生じない。大切なのは読者がテクストの「何に」どう反応したのかではなく、あくまでも「どこに」反応したかだけだからである。「火のない所に煙は立たない」*というリファテール文体論の公理が語るように、たとえ間違った解釈であっても、それが文体的事象のありかを示す重要な指標の役目を果たすことは大いにありうるのである。

 

*「読み」の過程において読み手が躓いたり、顕著に反応を示したりするのは、そこにその種の現象を誘発するテクスト的、もしくは文体的な素因が潜んでいるからに他ならない。「火のない所に煙は立たない」というのは、そうした発見原理を意味している。

同書 pp.182-183 

 大数を基にした分析は幾分科学的な方法論と言えます。しかし、果たしてこの方法論が有効となる場は存在するのでしょうか。
 
 このリファテールの原=読者の方法論について考えていると、ふと自らのエントリーを思い出しました。

 最近は付箋を片手に読書をしようと決めています。印象的な一節や思い当たった一節、示唆的な一節に何かを感じたら、すぐに付箋を貼りつけるのです。自然な読書が中断される動作に(とりわけ良い気分のとき!)最初は煩わしさがありましたが、この地道な企てが功を奏し、付箋の頁をめくるだけでお目当ての文章が見つかるようになりました。

付箋、スナップ写真、Qui suis-je?(私は誰か?) - かかれもの(改訂版)

  付箋は、謂わば読みにおける躓きの印です。原=読者の反応のようですが、それとは似て非なるものです。原=読者の躓きとは「どもり」のような、とっさに読むことができない「形式」を示しています。

 私の付箋はその限りではありません。というのも、付箋はある別のテクストに対する共時=並行性の想起をきっかけにしています(ハイパーテキスト化とも呼べます)。隔たった二物を繋げる、なめらかな「つなぎ」でしょうか。

 原=読者という予言的な言葉に私は躓きの石が置かれているように見えるのです。もう少し近寄って眺めてみましょう。

  解釈の流れを断ち切り、読解の作業を失速させる要素に注目するという方法は、リファテールのもう一つの研究領域にもほぼ同様な形で適用されている。「間テクスト性」をめぐる彼の一連の研究がそれである。
(…)
順調な思考の流れが断ち切られ、解釈行為が足止めをくわされる箇所にこそ、そのテクスト以外のテクストからもたらされた間テクスト的な要素が潜んでいる確率が高いというのが、彼のおおよその考え方である。
(…)
彼にとっては文体論も間テクスト性についての研究もそれほど遠く隔たったものではなく、むしろ共通の方法論的意識に根ざした仕事であると言えるであろう。

ワードマップ『現代文学理論 テクスト・読み・世界』p.184

  そう、きっとここに付箋に込めている真の意図があります。付箋はあるセンテンスを想起する役割を担い、同時に、想起させられる(逆方向の)役割も担っています。
 原=読者という言葉を巡って、ザナドゥ計画、イペルテクスト・イポテクスト、ベリーピッキングモデル、そんな類縁した概念が頭をよぎります。
 ここには一筋縄にはいかないテクスト対テクストの懸隔が広がっています。

現代文学理論―テクスト・読み・世界 (ワードマップ)

現代文学理論―テクスト・読み・世界 (ワードマップ)

 

 

点綴としたものを拾い集めるということ

てん てい【点綴】*1

点を打ったように,物がほどよく散らばること。また,散らばっている物をほどよく綴(つづ)り合わせること。てんてつ。てんせつ。

 日常で使わない言葉を目にしたとき、ストンと腑に落ちることがあります。その一方で、いつまで経っても口から滑り続ける言葉があります。

 命名行為(=言語化)は物事を簡潔に表す作用があるのですが、それが全てではありません。この矛盾した様を表す「点綴」という言葉はどう受け取ればよいのでしょうか。私はこの言葉をどうしても嚥下できないのです。

 ある翻訳サイトではこの言葉を a line (of mountains, islands, houses, etc.); bound together と表現していました。日本語の説明より幾分描写的です。山の連なりの稜線、水平線に点々と浮かんだ諸島、薄明に並ぶ住宅の路地、そんな風景が不思議と湧きあがります。

 あるものが集まって一つの束(線)を作り出しているのです。そしてこう言い換えることもできるでしょう。「ある一つの束は複数から構成されている」。*2

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2015/1/10 Funabashi

 点と線は表裏一体です。人間の過剰な想像力によって点と点は線で結ばれてきました。その最たる例は星座でしょう。

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http://m45.jp/spitzchu/archives/359

 星と星座の関係は「点綴」の賜物です。好き好きに散らばっている星に線を結び、主観的に意味連想してしまったもの。それが星座という物語です。

 点綴には、本義から転じて「書物をまとめあげる」という意味もあります。まとめあげたられたものは一冊の本を表しています。では、その意味において「散らばっているもの」は一体何を指しているのでしょうか。文章のセンテンス、著者の思考、文字が印刷された紙片。これらバラバラになっている要素に一つの方向性を与え、まとめあげた物。一つの束として結晶した物……

 そして、わたしはその先を夢想します。書物の集合もまた点綴している、と。図書館には主観的に並べられ、まとめられた本棚があります。それらは散らばっていながらまとまっているのです。本があるべき場所に収まっているのは何故でしょうか。まとめられた本の集合は、人類の大きな物語を予感させます。

 

 

目次をめくってみました。

みすず書房さん(@misuzu_shobo)が投稿した動画 -

  断章は私たちの心を捉えます。現代の私たちにとって、ブログ・ツイッター・インスタグラム・その他タイムライン形式の数々は「断章」です。*3

 点綴とした言葉。私たちは未だ線を失っていません。歴史は死んでいないのです。

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The Channel at Gravelines, Evening / Georges Pierre Seurat(1890)

*1:点綴とは - 難読語辞典 Weblio辞書

*2:「line island」で検索するとグラフ理論の話が出てきます。エッジを島と表現するのはケーニヒスベルクの橋の問題からでしょうか。いずれにしても、いかに線結ぶか、いかに橋をかけるかは、無意識の回路としてのsens(=向き)。すなわち「動線」を与えます

*3:タイムライン=時間-線。時間の線に結ばれた言葉。しばしば逆行した時間の流れで提示されます

写真を巡る贈与

 夏を満喫しよう!という召集にカメラマン役として参加しました。ファインダー越しに人を眺めていると、風景を撮るよりもポートレイトのほうが楽しいものだと実感します。翌日、写真をまとめて参加者に送ると、ひとしきり喜びの声が上がりました。こちらとて楽しい気分になります。

 私がカメラを持つようになったきっかけは、ある人から写真をたくさん撮られたこと、それが嬉しくて仕方なかった経験に始まります。思い出になる集合写真、ふとした一瞬の様をとらえた写真、私一人のポートレイト、それらが印象深くこころに残ったのです。そして多くの写真にはカメラマンが不在でした。当たり前のことですが、これがどこか、ぎこちなく、そして不自然に感じられたのです。一緒にいたはずなのに、そこにはいない、と。*1一緒にいたのだから、彼もまた記録に残さなければならない。そんな如何ともしがたい切迫感が、カメラを持たせる後押しになりました。

 写真は一つの贈与であると確信しています。これを理屈で説明することは難しいのですが、「返礼したい」という欲望、その切迫感が私の内に生じていたことは確かです。
 カメラを持つようになってから、写真に返礼を期待するようになりました。これは「私はあなたを撮った、だからあなたは私を撮らなければならない」という意味ではありません。私が期待してるのは巡り巡る返礼です。すなわち「私はあなたを撮った、だからあなたは誰かを撮らなければならない」ということです。

 写真を送った数人から「カメラ凄い、私も欲しい!」という声が上がりました。こう感じてもらえるのは、写真を撮ることや、撮った写真を見て貰うこと以上に喜びがあります。写真にまつわる「借り」を、こうした形で返すことができるのはとても幸いなことです。写真を巡る贈与の輪は、彼(彼女)らを通じて終わりなく拡がっていくことでしょう。

 

私たちはいわゆる「補完的」な関係のなかで、自分に足りないものを獲得することはできない。すなわち、「私があなたに足りないものを提供するから、それと引き換えに、あなたは私に足りないものを提供してほしい。それでちょうど貸し借りなしなのだ」という関係のなかでは……。そういった意味では、「他者」は私をまったく補完してくれない。足りないものが《等価交換》で獲得されることはないのだ。そうではなく、「足りないものがある人」に、《借り》を通じて、その足りないものが贈与され、そうやって「欲望をみたされた人」が今度は何かを贈与して、また別の「足りないものがある人」の欲望を満たす。足りないものは、そうやって獲得されるのである。

『借りの哲学』p.210

 まさにその通りであると、日々暮らしていて感じます。 

それにしても皆さん、写真を「撮られること」がお上手なことで。「撮られる姿勢」という贈与もまた受け取らなければならないと感じました。

 

借りの哲学 (atプラス叢書06)

借りの哲学 (atプラス叢書06)

 

*1:「そこに彼がいる、そこに私はいない」という視覚認識と反転しているからでしょうか

付箋、スナップ写真、Qui suis-je?(私は誰か?)

 「どこかで読んだはずなんだけどなぁ……」と、頭に残っている本の一節の書かれた頁がどうしても思い出せないことがあります。あれこれ引っ張り出して、いきおい斜め読みをしてみても存外見つけられないものです。なぜ思い出せないのか、なぜ見つからないのか、付箋を触っているとそれが腑に落ちたような気がしたのでここに一部書き留めたいと思います。

 数多くブログを読んでいると、稀に的確に引用文を持ち出す人がいます。主題との調和、その手際の良さに惚れ惚れしてしまいます。手捌きの術をぜひ教示願いたいものです(しかし、彼らは意識せずにそれをこなしているように見えます。)。

 まずは形から入ろうということで、最近は付箋を片手に読書をしようと決めています。印象的な一節や思い当たった一節、示唆的な一節に何かを感じたら、すぐに付箋を貼りつけるのです。自然な読書が中断される動作に(とりわけ良い気分のとき!)最初は煩わしさがありましたが、この地道な企てが功を奏し、付箋の頁をめくるだけでお目当ての文章が見つかるようになりました。この時ばかりは「さすがは過去の自分」と自賛したくなるものです。

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2013/2/4

 この付箋をフックにした追想の感覚。ふと、それが写真を見ているときの感覚に近いことに気が付きました。写真という、景の一部を切り取った映像が、そこに居合わせた手触りを蘇らせるのです。

 普段書き留めているライフログに写真があると、その一日の記憶の明瞭加減が明らかに違います。そして私はこう思うのです。写真を撮る動作の煩わしさは、付箋を貼る動作の煩わしさに通じているのではないか。

 「旅行で写真を撮るか否か」という一つの尽きない議論があります。片や写真を撮ることで旅の記憶を蘇らせることができる、と。片やそのときの生の体験にこそ意味がある、と。それが両者の主張するところです。実際は適度に写真を撮りながら旅を楽しむのですが、この議論の射程を変えると、面白い問いかけが見えてきます。「それは、誰か」と。

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2014/4/27

 体験か、記憶か、それは旅を享受する姿勢として捉えることができます。そしてそれが読書(=非実在への旅)にも通底しているのではないか、私はそう考えます。一回性の体験に重きを置く人にとって写真は無用でしょうし、本は一度読んだらそれでお終まいです。対して写真による記憶の蘇りを期待している人にとっては、本に書かれていることの真の意味を今現在ではなく、未来に投げかけているのです。今現在の自分に賭けるのか、それとも未来の自分に賭けるのか、そんな問いを孕んでいるのです。

 付箋と似て非なる「栞」についても少しだけ。さしあたり栞は前回までに読み終えた頁を開くため道具です。取るに足らないような気がしますが、問題はどこで栞を挟んだのかということです。本を閉じるタイミング、それは生理的な理由、物理的な理由、あるいは突然の訪問者によるものかもしれません。いずれにせよ、その契機を追究することに意味があるように感じます。

 読書の中断をお行儀良く章末で、ひとつ一つのセクションに従って読み込む所作は作者との同期と言っていいでしょう。教師が「では続きはまた来週」と言って、講義を締めくくるように、句読点が打たれることによって、浮動していた意味が決定されます。そこには各論としての、ストーリーの完結が用意されています。その一方で不意に本が閉じられ、意味が浮動のままになることがあります。突然の訪問者でしょうか?作者が意図していなかった場所に栞という句読点を打ち、私は玄関へ向かいます……

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聖書にせよ,中国の標準的なテクストにせよ,象徴記号による書き物の写本の研究では明らかなことだが,句読法の欠如が曖昧さの源泉になっている。句読法はいったん挿入されると意味を確定するが,句読法を変えると意味は一新されたり,覆ったりする。句読法が正確でないと意味をゆがめる。  ーーラカン

精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際』ブルース・フィンク著

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 優れた画家とは,人々が見るのと「同じもの」を見て,何か異なるものを見てとり,それを私たちに見えるようにする者だと考えられている。画家はそれまで見えていなかったものを露わにし,知覚できるようにするのである。ヴァン・ゴッホの場合なら,それは古靴から見てとれる人間性であろうし,モネの場合なら,盛夏の太陽の日差しの下,庭に揺らめくさまざまな色だろう。写真家は光と質感で同じことをする。フィルム,フィルター,シャッタースピード,絞りを使って,そこにあるものを明らかにする。それは既にそこにあるのだが,いわば見られるのを待っていたのであり,写真家の手がなければ見られないものである。駆け出しの音楽家は楽譜の音符に従ってほぼ正確なスピードで演奏しようとするが,熟達した音楽家は,スピードやアクセントを変えることによって,まったく同じ音符に暗黙のうちに含まれる多様なメロディーや声を巧妙に引き出す。

 〔精神分析家である〕治療者としての私たちも同じように行っていると見なすのは,有益な考え方だろう。私たちはそこにあるもの――既にあり,聞かれるのを待っているもの――を明らかにするのだが,それは私たちの手助けがなければ聞かれないものである。「自分の欲望はささやきのようなものでした。分析を始めるまで,心のささやきは,それまで誰も,自分でさえも聞くことがなかったほど,かすかなものでした」。ある私の分析主体がかつて言ったことである。

精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際』ブルース・フィンク著

 精神分析家は患者の持つ不明瞭なものを明確な形へ転化させる人物である。分析の場は一般にそうイメージされますが、それは正確ではありません(とフィンクは言います)。精神分析の文脈において分析家に相対しているのは「患者」ではなく「分析主体」です。なぜなら、分析の場で実際に分析を執り行うのは、分析家ではなく患者自身であるとされているからです。分析家が「問い」を繰り返すこと(「どうしてそう思ったのですか?」「それで?」等々)により、分析主体が自分自身の持つ謎に追及することを促すのです。精神分析家は分析主体それ自身が持つ謎への追及を促す機能にすぎません。

 知を想定された主体から放たれる句読点に、分析主体は自分自身の言葉の意味を問い始めます。分析主体はこうして自ら、自らのストーリーを構築することで言語化から逃れたモノを掴もうとするのです(そしてそれは必ず失敗します)。

 本来なら本は一度で通読するべきだと考えています。しかし実際には時間や眠気との戦いです。どこかで栞を挟み、中断せざるを得ません。ですから、再び本を開くときに前回までの振り返りが必要になります。ストーリーがどう至ってきたのか、それを今一度追想し、途切れた線の先を手繰り寄せるのです。

 このときに真に意味を取り戻しているのかどうかはさして重要ではありません。今現在私がどう意味を与えているかが重要なのです。横暴に言ってしまえば、作者の真に言いたいことではなく、自己が見出した意味こそ見よということです。

 普段私たちは生活そのものを意識せずに暮らしています。「忘我」しているものです。特別なことがない限り、無意識に起き、食べ、学び、働き、遊び、そして寝ているのです。しかし時として自分を振り返る場面に出会います。その象徴的な仕草が「写真を撮る」「付箋を貼る」といったものではないでしょうか。「それは、誰か」として、過去と未来という時間の論理的な流れを意識させ、生に客観的な視点を挿入させる機能があります。

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私は誰か?〔Qui suis-je?〕 めずらしく諺にたよるとしたら、これは結局、私が誰と「つきあっている」かを知りさえすればいい、ということになるはずではないか?

『ナジャ』 p.11

 「栞をはさむ」は何の象徴でしょうか。それはきっと生活の中にある「眠り」です。目覚め、意味を引き出し、再出発するためのものでしょう。

幼い頃、夜眠るのを怖がっていることがありました。「寝たらそのまま死んでしまうのではないか」というナイーブな発想をしていたのです。本を一度で読みきってしまいたいという強迫は、きっとそれに通底しているのでしょう。この続きはもう一生読めないかもしれない、だから今読んでしまいたい、という願いです。あるいは中途で「夢」に耽り、ストーリーを見失ってしまうかもしれないという恐怖です。眠りは境界です。

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電子書籍もブログもいわば、それ自体付箋的なメディアで、「墳墓としての書物」のような、独自の厚みと質量をもつことはないでしょうが、一方で書物のメタファーに還元されず、「本文」を欠き、あちこちから貼りつけられて、瞬時にはがされる付箋の集積は、固有のオーラがあるような気もするのです。

書物と付箋 - パランプセスト

 読書とは作者の内心を読み取る作業のように感じますが、全くの逆の可能性を指摘します。傍線を引くことで、付箋を貼ることで、意味を引き出し、私たちは利己的に引用しているのです。作者に同期し、重要箇所を見つけ出すというのは、錯誤なのかもしれません。ベストショットは常に偶然撮られるものですから。 

マッチカットとしての夢

その1

おばさんと女性二人組

話ながら歩く

上司?に「タオル取って」

上司はキョトン

おばさん、「女性は◯◯〔判読不能〕なのよ、取ってよ!」といいながら手でおもいっきり押しのける

押し退けた瞬間にカメラが切り替わる

若干古めの映像で後ろ姿で写される、その女性の女子高生時代の姿

走り抜ける姿を鳥ながら終わり

 

その2

おばさん、再度上司の後ろに迫る(たまたま通りがかる)

上司、気が付き腰を押さえながら後退って道を開ける

女子高生時代の映像、屋上?で下着を干しているのを忘れている。取りに来たところ。

同級生がそれを眺めている。焦ってすぐに回収、退散(異性への嫌な記憶)

現在に戻り、屋上に下着を干す同じ場面

焦って取りに行く。屋上には既に上司がいる。が、下着の隣で見向きもしない。

なんのことなしに下着を回収。スキップで戻る姿、内心笑顔。心の声で(「あの人、隔週だったわよね」(恋?))を言って終わり。

(2017.5.17 夢の生け捕り)

 映像のマッチカットが大変素晴らしく思わず記録に残した夢です。

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千年女優

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『パプリカ』

 夢はマッチカットの連続です。あるカットから別のカットへ淀みなく進んでいきます。私たちはそれを物語として受動的に眺めることしかできません。 

 夢の記録を見ると特徴的な「書き間違い」があることが分かります。文字の簡略化(走り書き)、誤字誤用・同音異義語の頻出、母国語と外国語(英語)の混同、短期的な言語新作が起こります。

 基本的に夢の記録は手書きで実践したほうが奇抜な表現が現れやすく、楽しいのですが、判読不能な文字が多くなります。解決策として電子機器で記述する方法があります。文字が正確に打ち出されるので、的確な記録が残せそうですが、手書きが持つアウラは失われてしまいます。

 夢の記録の不可思議なところは、清書をすると大変つまらない内容に変わってしまうことです。清書したものを読み返すと夢のリアルな感覚、肌触りが消えてしまっていることがよく分かります。

 夢の楽しさはマッチカットの連続に乗っている状態そのものです。「書き間違い」はカットの繋ぎとしての機能を内在している場合がありますから、修正するべきものではありません。

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Waking Dream Seance, 1924 Man Ray

  私が夢にこだわるのはアンドレ・ブルトン率いるシュルレアリストの影響であることは言うまでもありません。

 摩訶不思議な「自動記述(Écriture automatique)」なる実験を試したくなり、夢に馴れる努力をした時期がありました(残念ながらデスノスのような優れた才能が無いことはすぐに分かるのですが)。自動記述に最も近づいた時期の記録がここにあります。

Ⅰ、心臓音=言葉に見えた。玉の連なりとして音符のように。被物となって、白黒、DNAとして。背後から部分的に、円、映像的な。円が背後をかけ巡り、それをとらえようとする。見えたときにそれは、動脈それ時体であった。

Ⅱ、輝やっていた。書いた文字ではなく、書かれた文字が白く光っていた。ξ〔判読不能〕のような音の直性形。文字、明調のようなフォントちりばめられていた。私はそれを真似て種に新たな字をつくった。めなかった。女の名があった。手を動かすのはコツをかめばカンタンである。しかし、心臓が聴こえて夢であった。

(2013.9.25 夢の生け捕り)

 何度読み返しても奇々な文章です。これは夢の中で無我夢中で生け捕ったと思いきや、それ自体が夢だった不思議な夢の記録です。*1

 「書いた文字ではなく、書かれた文字が白く光っていた。」というのは大変神秘的な映像だったことは間違いないのですが、残念ながらもはや想起することができません。

 そして、夢の記録のいくつか。

「つくのばた」…①ここは大きな実がなる畑だ②必ず来る素晴らしい人との出会いを待っている(掛詞)

(2015.7.14 夢より)

 0.3秒刻みのストップモーションアニメのようにカクカクとした視覚と、緩やかな動作。まるでレイヤーが何重にもなるようにして、1コマ毎の景色が次々に重なった。目覚まし時計の針を確認しようとすると、表面のプラスチックの反射に遮られて、自分の顔がひびの入った鏡のようにそこに幾重に写った。

(2012.11.12 夢より)

 実家からの窓の眺め。夜、あるいはモノクロの外の景色。6mほど先に家を取り囲む高い柵、もしかしたら跳び掴まれるのではないか。多角的カメラ視点。跳ぶというよりも飛んだ。柵を乗り越え、ビルから暗闇に落下。 私の指名した彼女は青に近い水色のバスタブに、影の枠となった。私はそれを覗き込む。

( 2012.11.27 夢より) 

*1:野暮ながら解説をすると、Ⅰは「夢の中の夢」。Ⅱは「夢の中の夢」の自動記述をしている夢です。末尾に「心臓が聴こえて夢であった」と書いてあるのはまさに覚醒直前の感覚のことでしょう。