かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

ハイパーメディアコミュニケーションの修辞術

 グンナー・リーストルはハイパーメディア上のコミュニケーションの特徴を修辞学(口頭演説)との比喩で説明しました。

ハイパーメディアコミュニケーションの修辞術

 この表はロラン・バルトが『旧修辞学 便覧』で示した修辞学の規範的な区分を拡張したものです*1

修辞学の5つの要素

 バルトは同書のなかでActio〔行為〕とMemoria〔記憶〕の操作を分析の対象から除外しました。演説におけるドラマツルギー(Actio)と、予め演説を記憶しておくための戦略(Memoria)、この二つの操作は〈声〉と深く結びつくため、文字の文化と共に失われてしまったからです。

 グンナー・リーストルはActioとMemoriaが現代のハイパーメディア的なコミュニケーションで再び現れると指摘したうえで、著者と読者のハイパーメディア的な効果について、修辞学(口頭演説)における五つの区分と対置させています。

 著者と読者の相互作用(インタラクション)は、情報空間のナビゲータとして、読者が見当識障害に陥らないための補助記憶装置の役割を果たします*2

 機械的に伝達され、固定された相互テキストが大量に貯蔵されるようになりました。現代的な著者は、その外部化した記憶を利用していかに物語を創るかという「第二の著者」に変容しています。

 文字は著者と読者の距離を遠く離しましたが、ハイパーテキストは著者と読者を再び隣り合わせることでしょう。

 

Gunnar Liestøl, Wittgenstein, Genette and the Reader's Narrative in Hypertext, Hyper/Text/Theory所収 (ジョージ・P・ランドウ)

https://www.researchgate.net/publication/346788915_Wittgenstein_Genette_and_the_Reader's_Narrative_in_Hypertext

 

 

 

*1:バルトは生の素材である«主題»が「修辞機械(La machine rhétorique)」によって操作されることで、完全で構造化された弁論が現れると説明しました。

*2:サーバ・クライントというアーキテクチャや、マンマシンインターフェースといった思想がそれに相当するものでしょうか

文学空間逍遥

一冊の書物は、流星だ。散り散りになって、幾千の隕石と化す流星だ。その隕石たちのあてどない流れに挑発され、あらたな書物たちが衝突し、再開し、にわかに凝固し、未刊の形質たちは思い思いの線を描き、増補版や改訂版、改正版といった諸々の版が繰り出されてゆくだろう。そう、そこに巻き起こるのだ、広大無辺な星の流れが。

もしテクストが本当に好きであるならば、時折は、(少なくとも)二つのテクストを同時に愛することをどうしても望むはずなのだ。

ばらばらに離れた、不連続な諸々の要素を、連続し、一貫した全体へと転じること、それらの諸要素を 集め、それらを一緒に包含し(一緒に取り扱い)、つまりは、それらを読むことが問題になるやいなや、エクリチュールという仕事は、まさに〈再び書くこと〉と同じになるだろう。エクリチュールとは、常に、そういうものではないだろうか。再び書くこと、さまざまな端緒から出発してひとつのテクストを紡ぐこと。それは、それらの端緒を整理し、互いに結びつけることであり、現前している諸々の要素の間に起こる接合や転移を実現することである。エクリチュールのすべてが、コラージュと注解であり、引用と注釈なのだ。

重要なのは二つの事項をむすびつける過程なのだ。

 ユーザが事項間をむすぶ検索経路を作るときには、その経路に名前をつけてコード表に挿入し、キーボードをたたく。目の前の隣り合った画面に、結合される二つの事項の内容が映し出される。各々の下部に空白のコード記入用の欄が幾つかあり、各々そのうちの一つを指すようにポインタがセットされる。キーを一つたたけば、両事項は永久に結合され、それぞれのコード記入欄にはコード名称が現れる。コード記入欄には、肉眼では見えないが、光電管で読み取るための一組の点群が書き込まれる。すなわち事項ごとに、これらの点群の位置によって相手の事項の索引番号が指示されるわけだ。

 以後はいつでも、こうした事項の一つを映し出しているときに、ただ対応するコード欄の下のボタンを押すだけで、もう一つの事項を即座に呼び出すことができる。さらに、多数の事項が結合されて、一つの検索経路を作っている場合には、本のページをめくるときと同様にレバーを動かして、緩急自在に、それらの事項を次々に眺めていくことができる、これはあたかも、広く散らばった情報源から事項群を物理的に集めて、新しい本を作るようなものである。いや、むしろ新しい本というより、どの事項も多数の検索経路に含まれうるので、それ以上のものといえるのだ。

これらのテクストの摩擦は、実際のところ、二台のタイプライターの間に起こる摩擦でなくて何だろうか。一本のインクリボンが展開されていき、それが、別のもう一本のインクリボンを刺激し、そこに、滑ることのない接触によって、運動を伝達する。第二のリボンは、今度は、別のリボンを動員し、以下同様にして、すべての書物を始動させるに至る。それらは、摩擦を媒介として、最初の書物を反復するのである。

 伯父のこの最新式のアメリカ製の書き物机は、なにか新しい物の象徴としてそこにある。その新しさとは、さまざまに考えることができようが、まず見落とすことができないのは、そこに体現されている機能的に完ぺきな分類方式である。機械仕掛けによって無数の変容をとげてゆくのは、すべて引き出しなのである。これら引き出しは、どんな書類でも、処理できる無限の収納スペースを実現する。しかも、そこに収納されるのはもはや、統一性を保持した書物という単位ではなく、書物の断片としての書類の束である。ベンヤミンの『一方通交路』で、昨今の学者の研究方法を観相学的に判読してみせる。ある学者が一冊の本を書こうとする場合、その書物の内容にかんするポイントは、その著者のカード・ボックスにすべておさまっている。それをもとに、彼は一冊の本を書き上げる。別の研究者は、その書物を読者として読み、研究したうえで、そのポイントをまた自分のカード式索引ボックスに収納する。書物は、もはや今日、ふたつのカード式索引システムのあいだをとりもつ、一介の「周旋屋」にすぎなくなってしまった。ベンヤミンのひそみにならえば、カールの伯父の機械仕掛けの書き物机において、最新型の分類システムに分類され、収納されるのが書物でないのは、けっして偶然などではない。ここで、書類とカードは、書物という統一体の断片として等価である。意味するものの統一体として書物は、意味されるものの超越的先行を前提にしてきたが、その統一性が断片化しているのである。最新の分類システムは、本の統一性という理念を分解してしまうのだ。

電子空間はテキストの独立性よりもむしろ連関を強調することで、参照指示と暗示の可能性を新たなるものに書き換えてしまう。電子テキストでは或る一つのパッセージが別のパッセージを参照しているだけでなく、テキストが折れ曲がってどんな二つのパッセージでも一緒にして隣合わせて読者に提示することができる。また、或るテキストが他のテキストを暗示するだけでなく、別のテキストのなかに入り込んできて一つの視覚的な相互的テキストとして読者の目の前に現れることも可能である。相互テキスト的な関係は印刷のなかでも至るところで生じている。それは小説やゴシック・ロマンスや大衆雑誌や百科全書や文法書や辞書などにおいても生じている。しかし、電子空間によってそれまでいかなるメディアにも可能でなかったような仕方で相互テキスト性を視覚化することが可能となるのである。

古典ラテン語において、compilare〔compile(編集する)の語源〕という語には、略奪する、盗み取る(対象は主として人や建築物であり、テクストについての言及はとくにない)という否定的な意味であった。だが、七世紀までには、セビリァのイシドルスがcompilatorを、「ちょうど顔料を作る人が多くのさまざまな[色素]を乳鉢の中ですりつぶすように、他の人々の言葉を己の言葉と混ぜ合わせる者」という道徳的に中立的な表現を用いて定義した。十三世紀までには、compilareという語は、他のいくつかの語(excerpere〈抜粋する〉、colligere〈結び合わせる〉、deflorare〈花を摘み取る〉)と置き換え可能なものとして効果的に用いられ、手持ちの原典から抜粋集を作ったり、「花々」(すなわち最も優れた断片)を精選したりすることを意味するようになった。

したがって、われわれは、読書によっては文章の語り口や物語の流暢な話し振りや流れるような言語活動の自然さによって眼にみえないように熔接された滑らかな表面しか捉えられない意味作用significationの塊を、小地震のようなやり方で切り離し、テキストにひびを入れるだろう。原テキストの記号表現は切り分けられ、隣り合った短い断片の連続となるだろう。

コンピュータ・テクノロジーによってこうした中断はもっと精緻な形でなされるようになり、時間もかからなくなった。電子図書館においては、書き手は自分が書いているテキストから転じてたやすく別のテキストを読むことができる。自分自身のテキストと、それとは別のテキストという区別はぼやけ始めている。書き手は何であれば読んでいるテキストから自分の文書へカット・アンド・ペーストすることができるからだ。充分に仕上がったハイパーテキストでは、こうした区別は消え失せてしまう。書き手が言語的観念とディスプレイ上でそれを視覚的に表現したものの間をすばやく移動するのであるから、コンピュータは書くという過程そのものをスピード・アップする。書き手の頭の中にある観念のネットワークは、コンピュータ上の表現に融け込む。こうして出来上がった構造は、今度は逆にこのコンピュータや別のコンピュータの中に蓄積されたあらゆるテキストに融合するのである。プラトンが示した内在的記憶と外在的記憶の間の区別――あらゆるライティングの根底にある区別――を、まるでコンピュータが失くしてしまうことができるかのようだ。

 この関係性の読書(二つもしくはそれ以上のテクストを相互に関連させながら読むこと)は、おそらく、流行遅れの言い方かも知れないが私のいわゆる開かれた構造主義を実践する機会となるだろう。というのも、この分野には二つの構造主義があるからだ。一つはテキストの閉域性を前提とし内的構造の解読を目指す構造主義で、これはたとえば、ヤーコブソンレヴィ=ストロースによる〔ボードレール詩篇〕「猫たち」の有名な分析に認められる構造主義である。もう一つはたとえば〔同じくレヴィ=ストロースの〕『神話学』の構造主義で、そこでみとれるのは、いかにしてあるテクスト(ある神話)は「別のテクスト(別の神話)を読む」ことが――こちらが協力してやれば――可能であるか、ということだ。

われわれが求めているのは、一つのエクリチュール(本書では、古典的な読み得るエクリチュールとなるであろう)の立体画的空間をスケッチすることである。複数性を肯定することに基づいた注釈は、したがって、テキストを《尊重》して作業することはできない。原テキストは、自然な分割(統辞論的、修辞学的、逸話的)を何ら考慮することなく、たえず砕かれ、中断されるであろう。目録や評釈や脱線がサスペンスの途中に入り込んだり、動詞とその目的補語、名詞とその属詞を切り離したりすることさえあるだろう。注釈の作業は、それが全体性というイデオロギーから脱するや否や、まさにテキストを虐待し、テキストの発言を遮ることになるのだ。しかし、否定されているのは、テキストの質(本書では、比類のない)ではなく、その《自然らしさ》なのである。

 このことから、単純に、引用文は間テクストの自明な操作子であると理解される。引用は、読み手の能力に訴えかけて、読解という装置を始動させる。読解という装置は、ひとつの引用のうちに、二つのテクスト――その関係は、等価でもなければ、単なる反復でもない――が突きあわせられる形で置かれるやいなや、ある作業を行うはずである。しかし、この作業は、テクストに内在するひとつの現象に依存している。すなわち、引用は、独特な仕方でテクストを掘削し、それを切開し、それを隔てているのである。そこには意味の探求が存在し、読解がその探求を進めていくのである。つまり、それは、ひとつの穴であり、ポテンシャルを秘めたひとつの差異、ひとつの短絡といったものだ。現象とは差異であり、意味とはその差異の解決である。

複合文書の論理は単純である。文書の所有権の概念に基づいているのだ。文書にはすべて所有者がいる。所有者以外の誰も修正できなければ、この文書の一体性は保持される。

 しかし、所有者以外でも好きなだけそこから引用して別の文書をつくることはできる。このメカニズムを〈引用窓〉または〈引用リンク〉と呼ぶ。新しい文書の「窓」を通して、もとの文書の一部を見ることもできる。これを〈トランスクルージョン〉と呼ぶ。

 窓が付けられた(あるいは窓が開いた)文書の窓とは、文書間のリンクのことである。窓を通じて引用されているデータはコピーされない。引用リンクのシンボル(またはこれと本質的に同じもの)が引用しているほうの文書に置かれるだけである。こうした引用はもとの文書のコピーをつくるわけではないので、もとの文書の一体性、独自性、所有権になんの影響も与えない

 

所収

  • 『思考の取引――書物と書店と』ジャン=リュック・ナンシー
  • 『パランプセスト―第二次の文学』ジュラール・ジュネット
  • 『第二の手、または引用の作業』アントワーヌ・コンパニョン
  • 「われわれが思考するごとく」ヴァネヴァー・ブッシュ(『思想としてのパソコン』西垣通
  • 『書物の図像学―炎上する図書館・亀裂のはしる書き物机・空っぽのインク壺』原克
  • 『ライティングスペース : 電子テキスト時代のエクリチュール』ジェイ・デイヴィッド ボルター
  • 『情報爆発』アン・ブレア
  • 『S/Z』ロラン・バルト
  • 『リテラリーマシン ハイパーテキスト原論』テッド・ネルソン

 

HATEOASとは何か

RESTにおけるHATEOAS

 それは、REST(REpresentational State Transfer)における、統一インターフェースの一つです*1

統一インターフェース(Uniform Interface)

  1. リソースの識別(identification of resources)
  2. 表現によるリソースの操作(manipulation of resources through representations)
  3. 自己記述的メッセージ(self-descriptive messages)
  4. アプリケーション状態エンジンとしてのハイパーメディアHATEOAS;hypermedia as the engine of application state)

リチャードソンの成熟度モデルにおけるHATEOAS

 それは、RESTへの到達を表すリチャードソンの成熟度モデルにおける、レベル3に相当します。

Steps toward REST

 The point of hypermedia controls is that they tell us what we can do next, and the URI of the resource we need to manipulate to do it. Rather than us having to know where to post our appointment request, the hypermedia controls in the response tell us how to do it.
  ハイパーメディアコントロールの本質は、次に私は何ができるか、リソースのURIに対してどのような操作ができるかを示すことだ。どこにリクエストを送るか事前に知っている必要はない。何をすべきかはレスポンスの中にあるハイパーメディアコントロールが示しているのだから。

「知ること」にとってのHATEOAS

 それは、直感に従って「知ること」を目指すための道標です。

Follow Your Nose

EVOLVE'13 | Keynote | Roy Fielding

RESTから離れて

 SPA(Single Page Application)とRESTの相性が悪いことはよく指摘されます。

 例えば静的なページを対象としたWebクローラは、JSON APIを得意とするSPA(CSR)のクローリングを適切に行うことができません。Googlebotは幸いJavaScriptを実行できますが、タイムアウトの問題を克服しているわけではないので完全とは言い難いでしょう。SSR・SSGといった技術もありますが、単に商業的なSEO対策として利用されるケースが多いようです。

 その他REST的な思想に基づいてJSONをLinked Data*2として拡張する提案が多様にあります。比較的メジャーなJSON-LD(application/ld+json)*3、HAL(application/hal+json)*4、Hydra*5についても浸透しているとは言い難い状況です。これらは人間用とロボット用にWebページを設計する必要があり、開発コストが見合わないことがその要因の一つでしょう。

 SPAを突き詰めるための手段としてのGraphQL*6やgRPC*7は明らかにRESTから遠ざかる方向(SOAPプロトコル*8)を目指しています。人によっては昨今のWebアプリが「打倒ネイティブアプリ!」を掲げているように見えるかもしれません。その象徴がElectron*9でしょうか。

JSON API vs Hypertext API

あるAPI「GET /user?id=1」

{
  "name": "山田太郎",
  "email": "yamada-taro@email.com"
}

 JSON API、素晴らしい!洗練されている!通信のペイロードも少ない!

 しかし、明らかにRESTから遠ざかっています。この情報からは行為の選択肢について何もアフォードされていません。私は次に何をすることができるのでしょう?このユーザに対して何をすることができるのでしょう?

あるAPI「GET  /user?id=1」

<div>
  <div>
    Name: 山田太郎
  </div>
  <div>
    Email: yamada-taro@email.com
  </div>
  <div>
    <a href="/contact/edit">Edit</a>
    <a href="/contact/email">Email</a>
  </div>
</div>

 残念ながらHypertext APIは煩雑なようです。しかし、私ができることは明白です。事前知識が無くても、セマンティクスさえ分かっていれば人間にもロボットにも十分な情報がアフォードされています。

htmx

 htmx*10
トップページには次のような4つの謎めいた提題があります。

  • Why should only a and form be able to make HTTP requests?
    (どうしてaとformだけが唯一サーバと通信できるのでしょう?)
  • Why should only click & submit events trigger them?
    (どうしてクリックとサブミットだけが唯一のイベントトリガーなのでしょう?)
  • Why should only GET & POST methods be available?
    (どうしてGETとPOSTメソッドだけが許されているのでしょう?)
  • Why should you only be able to replace the entire screen?
    (どうして画面全体を書き換えることだけが許されているのでしょう?)

 これらについては作者が動画やエッセイ*11で解説しています。曰くである、non-hypermedia formatからハイパーテクストへの回帰はあるのでしょうか。


www.youtube.com

 

 直感に従ってページの中にあるリンクをクリックすること、それがHATEOASの目指す姿です。

 

recrits.hatenablog.com

 

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続・スイユ/パラ書物の一覧表

パラ書物

 『スイユ』(ジェラール・ジュネット)は特定の地域(フランス)、特定の時期(20世紀)における書物の共時的な分析の集成です。「パラテクスト(準テクスト)」というキーワードに導かれ、テクストに対する制御(水門、玄関)や、内と外を繋ぐ境界面といった書物周辺が仔細に分類されていきます。これらは要するにテクストと読者を繋ぐための段階論的テクストの考察でした。これに接ぎ木するならば、ジュネット自身が示唆したように、通時性の軸を加えることや、より一般化した共時性へ拡充することに主眼があてられそうです。

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 この分析の延長線上に置かれる作業の一つは、書物の内と外に境界線を引くことです。ここから想定されるのが「パラ書物」という、書物と読者を繋げるための段階論的書物です。この超書物的な関係を図で表すとこのように表すことができます。

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 パラ書物が対象とするのは本の内容ではありません。分類可能な書物周辺であるビブリオテーク(本の置き場、書物を安定的に配置する場)を対象とした分析です。パラ書物は、書物がいかにして書店に並べられるか、読者がいかにして書物を手に入れるか、という問いに繋がります*1

支持体

 テクストそれ自体が自立できないように、書物それ自体も自立することはできません。テクストに良き友としての写字生と装丁が必要なように、書物には配達人と建物が必要です。書物が安定的であるための条件、それは「支持体」が盤石であることです。

 例えば、書店が存在することによって私たちは望んだ書物を手にすることがでます(このとき書店は書物にとっての支持体です)。そのとき私たちは、本棚に整然と並んだ背表紙から選ぶことができます(本棚という支持体があるからに他なりません)。支持体の存在はしばしば透明で、私達はこのようなパラ書物が与える「価値」について往々にして忘れてしまっています。あるいは単に知らないこともあるはずです。

パラ書物の一覧表

 パラ書物の一覧を試みましょう。ジュネットが行き当たった問題同様、特定の地域、時代、文化に依存する以上、完全さは諦めるしかありません*2。しかし、書物周辺の変化が私達に及ぼす影響が計り知れないものであるならば、本との出会いがどのようにして起こるかについて、私達は常に再考すべきでしょう。

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*1:その先に人文主義的な〈書物〉が想定されます

*2:ジュネットはパラテクスト=ペリテクスト+エピテクストという公準を導入しましたが、電子テクストが一般化した現代においては、超克された感があります。固定化した書物は解かれ、再び写本時代のように「読むこと=書くこと」へ変化しています

「As We May Think」Chapter7

 以上述べた全ては従来から存在しており、ただ現在の装置や機械を未来に延長したものにすぎない。とはいえ、それは連想索引法への直接の手がかりを与えてくれる。連想索引法の基本的なアイデアは、どんな事項からでも他の望みの事項を、瞬時かつ自動的に選択するようにできる、という点にある。重要なのは二つの事項をむすびつける過程なのだ。
 ユーザが事項間をむすぶ検索経路を作るときには、その経路に名前をつけてコード表に挿入し、キーボードをたたく。目の前の隣り合った画面に、結合される二つの事項の内容が映し出される。各々の下部に空白のコード記入用の欄が幾つかあり、各々そのうちの一つを指すようにポインタがセットされる。キーを一つたたけば、両事項は永久に結合され、それぞれのコード記入欄にはコード名称が現れる。コード記入欄には、肉眼では見えないが、光電管で読み取るための一組の点群が書き込まれる。すなわち事項ごとに、これらの点群の位置によって相手の事項の索引番号が指示されるわけだ。
 以後はいつでも、こうした事項の一つを映し出しているときに、ただ対応するコード欄の下のボタンを押すだけで、もう一つの事項を即座に呼び出すことができる。さらに、多数の事項が結合されて、一つの検索経路を作っている場合には、本のページをめくるときと同様にレバーを動かして、緩急自在に、それらの事項を次々に眺めていくことができる、これはあたかも、広く散らばった情報源から事項群を物理的に集めて、新しい本を作るようなものである。いや、むしろ新しい本というより、どの事項も多数の検索経路に含まれうるので、それ以上のものといえるのだ。
 いま、メメックスの持ち主であるユーザが、弓矢の起源と特性に興味があるとしてみよう。とりわけ、トルコの短弓が英国の長弓より十字軍の戦闘においてなぜ圧倒的に優れていたのか、という理由について研究しているとする。メメックスのなかには、関連のありそうな書籍や論文が何十件も入っている。ユーザはまず、百科事典を全般に渉猟し、概略を述べた興味深い事項を見つけて、それを映し出しておく。次いで、歴史書のなかから関連事項を拾い出し、両者を結合する。このようにして、たくさんの事項を連結した検索経路を形成していく。ときおり、自分のコメントを書き込んで、それをおもな検索経路に直接むすびつけたり、特定の事項に関する分岐した検索経路に追加したりする。弓には利用しうる素材の弾性という性質が大いに関係したということが明らかになると、脇の検索経路に分岐し、弾性に関する教科書や物理定数を参照していく。そして、自分自身による分析結果を記したページを挿入する。このようにしてユーザは、利用できる資料の迷路のなかに、自分の興味のあるものの検索経路を作り上げるのだ。
 そしてこの検索経路は消滅することはない。何年か後に、ユーザが友人と語り合っているとき、「人間は生死に関わる事柄でさえ、技術革新に抵抗するものだ」という、ヒトの奇妙な性向に話題が向くとしよう。事実、ヨーロッパ人は射程距離で劣っていたにもかかわらずトルコの短弓を採用しなかった、という実例があるのだ。ユーザは実際に、そのことについての事項の検索経路をもっているのである、キーを一回たたくだけでコード表が現れる。数回キーをたたけば、検索経路の先頭が映し出される。レバーを使って、その検索経路上を、関心のある事項のところで止まったり、脇道に入ったりしながら、思いのままに進むことができる。これは興味深い検索経路であって、議論に関連があるのだ。そこでユーザは複製装置を始動させ、全検索経路を写真に撮り、友人自身のメメックスに挿入するようにそれを手渡す。こうして、その検索経路はさらに一般的な検索経路へと結合されていくのである。
 
p84-85「われわれが思考するごとく」ヴァネヴァー・ブッシュ『思想としてのパソコン』西垣通

 以上のことは、従来のやり方と何ら変わったところはない。今日手に入る機械装置と電気製品を将来に向かって延長しただけのことだ。しかし、それは連想索引法への直接のステップでもある。どんな項目でも、望めば瞬時にかつ自動的に別の項目を選択するようにできるというのがその基本アイデアだ。これがメメックスの本質的な機能だ。ふたつの項目を結ぶというのは重要なことなのだ。

 ユーザが項目から項目への道筋をつくろうとするときには、それに名前を付けてコード表に挿入し、キーボードを叩く。目の前に結合されるべきふたつの項目が現れ、隣合わせの位置に映し出される。画面の下のほうに空白のコード欄が多数あり、そのうちのひとつを指し示すポインタが各々に用意されている。ユーザーがキーをひとつ叩けば、各項目が永久的に結合される。コード欄には、コード・ワードが現れる。目には見えないが、光電管で読み取るためのドット一式が同時にコード欄に挿入される。このドットが各々の項目から相手の項目を指し示すインデックスになっているのだ。
 それ以後はいつでも、項目のひとつが映し出されていれば、対応するコード欄の下のボタンを叩くだけでもう一方の項目を呼び出すことができる。さらに、多数の項目が道筋を立てるために結合されていれば、本のページをめくる時の要領でレバーを操作して、速くまたはゆっくりと順番にながめることができる。
 まるで、広い範囲の別々の出典からよせ集められたいろいろな項目をまとめて一冊の新しい本をつくったようなものだ。いや、実はそれ以上のことができるのだ。
 どんな項目でも、多数の道筋に結合できるのだから。

 メメックスの持ち主が、弓矢の起源とその性質に関心があったとしてみよう。
 なぜ十字軍の小ぜり合いで、短いトルコ式の弓のほうが英国式の長い弓よりも優れていたかを研究しているとしよう。彼は、関連する書籍や論文などをメメックスに何冊も保存している。まず、百科事典を取り出して全体をながめ、興味深いおおまかな記述を見つけ出して画面に映し出しておく。次に歴史のなかから関連のある項目を見つけ出し、上のものと結び付ける。このようにして、多数の項目の間のつながりをつくっていく。時たま、自分のコメントを挿入して、おもな道筋につなげるか、特定の項目の横道の道筋につなぐ。手に入る材料の弾力性と弓の間に深い関係があることが明らかになれば、彼は横道にそれて、弾性に関する教科書や物理定数表を巡り歩くことになる。そこで自分が分析した内容を手書きで挿入する。こうして彼は、手に入る資料の迷路のなかを行ったり来たりして彼自身の関心事の道筋を立てていくのである。

 このユーザーの立てた道筋は消えない。数年後、彼の友人との会話は「奇妙なことに、人々は重要で興味のあることがらであっても革新を拒むことがある」という話題に及ぶ。彼は例を知っている。より大きな射程距離の弓矢をもっていたヨーロッパ人はトルコ式の弓の導入に失敗したという事実である。実際、彼はこの事実に関連する道筋をもっている。ひとつキーを叩けばコード表が出てくる。ふたつ、三つ叩けば道筋の冒頭が映し出される。レバーを使えば関心のある項目で止まったり横道にそれたり、意志どおりに道筋を動き回ることができる。
 この道筋は興味深いもので、この議論と関連がある。そこで彼は再生装置を起動させて道筋全体を写真に撮り、友人に渡す。友人は自分のメメックスにそれを挿入し、さらに一般的な道筋と結合していくことになる。

 

p126-128「思うがままに」ヴァネヴァー・ブッシュ『リテラリー・マシン』テッド・ネルソン著、竹内有雄・斉藤康己訳

All this is conventional, except for the projection forward of present-day mechanisms and gadgetry. It affords an immediate step, however, to associative indexing, the basic idea of which is a provision whereby any item may be caused at will to select immediately and automatically another. This is the essential feature of the memex. The process of tying two items together is the important thing.

When the user is building a trail, he names it, inserts the name in his code book, and taps it out on his keyboard. Before him are the two items to be joined, projected onto adjacent viewing positions. At the bottom of each there are a number of blank code spaces, and a pointer is set to indicate one of these on each item. The user taps a single key, and the items are permanently joined. In each code space appears the code word. Out of view, but also in the code space, is inserted a set of dots for photocell viewing; and on each item these dots by their positions designate the index number of the other item.

Thereafter, at any time, when one of these items is in view, the other can be instantly recalled merely by tapping a button below the corresponding code space. Moreover, when numerous items have been thus joined together to form a trail, they can be reviewed in turn, rapidly or slowly, by deflecting a lever like that used for turning the pages of a book. It is exactly as though the physical items had been gathered together from widely separated sources and bound together to form a new book. It is more than this, for any item can be joined into numerous trails.

The owner of the memex, let us say, is interested in the origin and properties of the bow and arrow. Specifically he is studying why the short Turkish bow was apparently superior to the English long bow in the skirmishes of the Crusades. He has dozens of possibly pertinent books and articles in his memex. First he runs through an encyclopedia, finds an interesting but sketchy article, leaves it projected. Next, in a history, he finds another pertinent item, and ties the two together. Thus he goes, building a trail of many items. Occasionally he inserts a comment of his own, either linking it into the main trail or joining it by a side trail to a particular item. When it becomes evident that the elastic properties of available materials had a great deal to do with the bow, he branches off on a side trail which takes him through textbooks on elasticity and tables of physical constants. He inserts a page of longhand analysis of his own. Thus he builds a trail of his interest through the maze of materials available to him.

And his trails do not fade. Several years later, his talk with a friend turns to the queer ways in which a people resist innovations, even of vital interest. He has an example, in the fact that the outranged Europeans still failed to adopt the Turkish bow. In fact he has a trail on it. A touch brings up the code book. Tapping a few keys projects the head of the trail. A lever runs through it at will, stopping at interesting items, going off on side excursions. It is an interesting trail, pertinent to the discussion. So he sets a reproducer in action, photographs the whole trail out, and passes it to his friend for insertion in his own memex, there to be linked into the more general trail.

 

Vannevar Bush, 

As We May Think - The Atlantic

 

recrits.hatenablog.com

ヴァネヴァー・ブッシュ「As We May Think」

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AS WE MAY THINK 1945 JULY

原著「As We May Think」*1

 ヴァネヴァー・ブッシュの「As We May Think」が掲載された雑誌は2種類存在する。『アトランティック・マンスリー』版と『ライフ』版である。

『アトランティック・マンスリー』版「As We May Think」

 1945年7月、『アトランティック・マンスリー』に「As We May Think」が掲載される。「As We May Think」を学術的に引用する場合はこの版を指すことが多く、オリジナルと呼称して差し支え無いだろう。

 原著に最も近い視覚資料としては、Computer History Museumが所蔵している、ダグラス・エンゲルバードが余白に書き込みをした「As We May Think」が参考になる。メディア変換で失われてしまった段組みや活字体、イニシャルといった情報も参照できる。

『ライフ』版「As We May Think」

https://books.google.com/books?id=uUkEAAAAMBAJ&lpg&pg=PA112&hl=en#v=onepage&q&f=false

 1945年9月、『ライフ』に「As We May Think」が掲載される。『アトランティック・マンスリー』からの要約版であるとされ、オリジナルから差異が存在している。複数の図版が加えられており、Memexの内部構造の図版はここから引用されていることが多い。

電子版「As We May Think」

 「As We May Think」の有力な電子版としては、アトランティック社によるデジタルアーカイブと、ブラウン大学のWebサイトで公開されている版がある。また、有力とは言い難いが、Web検索で上位に上がる版としてMITのDenys Duchier氏による資料がある。

アトランティックデジタルアーカイブ版「As We May Think」

https://www.theatlantic.com/magazine/archive/1945/07/as-we-may-think/303881/

 アトランティック社によるデジタルアーカイブ。原文からの移行で発生したと思われる誤転記が含まれている。

ブラウン大学版「As We May Think」

https://web.archive.org/web/20011215033907id_/http://www.isg.sfu.ca/~duchier/misc/vbush/vbush.shtml

 MITで「As We May Think」の50周年記念イベントが開催された際にブラウン大学のWebサイトで公開された「As We May Think」。原文からの移行で発生したと思われる誤転記が含まれている。

Denys Duchier版「As We May Think」

http://web.mit.edu/STS.035/www/PDFs/think.pdf

 1994年4月、アトランティックの許可のもと作成された「As We May Think」。作成の経緯は不明。誤転記や文章の欠損が含まれている。

邦訳「As We May Think」

「思うがままに」,『リテラリーマシン―ハイパーテキスト原論』,アスキー,1994.10.1

「われわれが思考するごとく」,『思想としてのパソコン』,西垣 通,1997.5.1

「われわれが考えるように」,「メメックスの基本的構想」,山口裕之,Last-Modified: Wed, 26 Nov 2003 06:51:02 GMT*2

http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/yamaguci/inet_lec/lec12/memex01.html

「考えてみるに」,山形浩生,2013.3.25

https://cruel.hatenablog.com/entry/20130324/1364095703

 

recrits.hatenablog.com

 

*1:クリスティーナ・エンゲルバードが「ヴァネヴァー・ブッシュ50周年記念シンポジウム」に関する断片的な情報を収集し、公開した「The MIT/Brown Vannevar Bush Symposium」(Last-Modified: Sun, 07 Nov 2021 08:19:08 GMT)の内容を基底とした。このWebサイトが公開された背景については「A day in the life of a personal archivist」に記されている。

*2:なお、「アスキー出版、1994年の日本語訳から重引したもの」とあるが、誤転記が含まれている。

書誌におけるパラテクスト/ジュネットの『スイユ』について

『スイユ』における不完全なパラテクスト一覧表

 ジュラール・ジュネットは超テクスト性の一タイプ「パラテクスト」について、『スイユ : テクストから書物へ』に集成しました。同書はパラテクストの一覧表を作ることを目指したとされるものの、実際にはその不完全さを複数指摘することができます。これについてはジュネット自身が同書中で弁明していますが、原因は自身の力不足とみなし、深くは追究されていません。

recrits.hatenablog.com

 『スイユ』におけるパラテクストの列挙は、書物の一般的な構成に従っている、と説明されています。作者名、タイトル、紹介寸評、エピテクスト……といった具合です。このジュネットが馴染んだ書物の形態に従ってテクストを配置をするというのは、メディアが多様化しつつある世界に対して相応しくない方法論だったのではないでしょうか。一覧表が不完全になった原因の一つは書誌的な観点(≠通時的な観点)が欠けていたことではないか、というのが私見です。

LRMにおけるパラテクストの位置づけ

 IFRAが提唱する書誌情報を管理する概念モデルLRM*1を援用することで、ジュネットが対象としたパラテクストを書誌的に位置付けることができます(一般的な日本語訳とは異なるため、原語を併記)。

 書物*2を書誌的に分解すると「制作」(Work)、「表現」(Expression)、「顕現」(Manifestation)、「資料」(Item)の4つの構成要素(Entity)に分けることができます。これら4つの構成要素は関係(Relationship)を持っています。「制作」が実現(realize)することで「表現」され、「表現」が具現(embody)することで「顕現」し、またその例示(exemplify)が「資料」となります。

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IFLA Library Reference ModelにおけるER図

 この4つの構成要素における一つのポイントは「表現」と「顕現」の関係を通すことで、物理的な書物が生じるということです。「制作」から「表現」までは書物成立以前の、作者と出版社が強く影響を与える領域、「顕現」から「資料」は書物成立以降の、図書館や書店、読者が強く影響を与える領域と言えます。

 『スイユ』で対象としていたパラテクストの正体は何か。端的に言うならそれは、実現(realize)と具現(embody)の関係から生じたテクスト的現象です。著者と出版社(印刷所)が担う書物成立における本文の周辺を探索しているのです。

 一方、例示(exemplify)によって生じるテクスト的現象については一切触れられません。書物が読者に渡った後に生じるパラテクストはその範疇から除外されているのです。ここでいう読者とは、本屋や図書館といった、例示された書物を所有する広義な読者も含んでいます。

読者によるパラテクスト

 『スイユ』がその範疇から除外したパラテクストの区分は、読者によるパラテクスト(「顕現」と「資料」の関係=例示)です。ジュネットは読者の存在が書物に対して影響を与えるとは想定していなかったのでしょうか。

 広義の読者である本屋や図書館における本の取り扱いは今や重要なパラテクストです。本棚にどのように並べるか、どのようなコーナーを設けるかといった排架は、人々をその本への導く役割を担っています。狭義の読者、ある一人の読者の本の取り扱いが、その本にどのような効果を及ぼすかはまだ明らかではありません。しかし、Webにおける個人の書評が本の売れ行きに関わるなど、徐々に影響力を増しています。今後重要なパラテクストとして扱われる可能性を持っていると言えるでしょう。

*1:IFLA Library Reference Model A Conceptual Model for Bibliographic Information(https://www.ifla.org/wp-content/uploads/2019/05/assets/cataloguing/frbr-lrm/ifla-lrm-august-2017.pdf

*2:LRMを援用するなら「情報源」といった広汎な表現をすべきですが、ここでは便宜的に「書物」と表しています