かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

パラテクスト/パラ書物/パラ書庫

パラテクストの空間的体制

 ジェラール・ジュネットは『スイユ』でテクストの輪郭をより鮮明にするために「パラテクスト」という概念装置を導入しました。パラテクストとは作者名、タイトル、献辞、エピグラフ、序文といった書物の本文を囲繞するテクストで、それらは著者と読者の間の水位を調整するための「水門」のような役割を果たすと述べました。

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 ジュネットはパラテクストの空間的な体制として、書物の中のテクストに物理的に付随しているものと、そうでないもので仕分けをしました。パラテクスト=ペリテクスト+エピテクストという定式です。

パラテクスト=ペリテクスト+エピテクスト

ペリテクストから、エピテクストを区別する公準は、原理的に、純粋に空間的なものである。同じ書物のなかのテクストに物質的に付随しておらず、潜在的には無制限の物理的かつ社会的空間のなかをいわば自由自在に流通しているあらゆるパラテクスト要素が、エピテクストなのだ。エピテクスト=書物ノ外ナラドコデモ。

 「テクストから書物へ」という邦訳の副題が示唆している通り、『スイユ』では境界にあるテクストが、書物の成立に寄与するという議論を内包しています。そして、このテクストと書物の境界を際立たせているのが書物の外側にある「エピテクスト」です。

エピテクスト

 テクストの分析を核とするジュネットにとって、エピテクストは周縁的な存在です。書物のなかのテクストに物質的に付随していないテクストであり、通常は書物の構成物と見做されないテクストです――テクストに属しながらテクストの外にある――。

 ジュネットの空間的な二分法が「物理的に付随しているか否か」という、テクストに固有ではない、空間的な判定基準であるとするなら、一般化された構造原理として扱うことができるはずです。また、そうすることでパラテクスト=ペリテクスト+エピテクストという定式はそのまま、「エピテクスト=書物ノ外」という一見矛盾したジュネットの表現を字面通りに解釈できるようになります。

テクストから書物へ、そして書物から書庫へ

 ジュネットのparaという概念装置を足掛かりに、テクストと書物、そして書庫の関係性を精緻に図式化することができます。テクストに対するパラテクスト、書物に対するパラ書物、書庫に対するパラ書庫、その三者の空間的な体制です。

書庫、書物、テクストの空間的体制

パラ書物(paralivre)

 パラ書物については以前一覧をしたことがありますが、まだ分類は粗い状態でした。

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 ジュネットはポスターや広告、書評記事といった書物の外側を流通するテクストをエピテクストとしました。エピテクストは書物のなかのテクストに物質的に付随しておらず、また、一冊の書物を対象として論じられるものです。書評が論じるのはテクストの一節ではなく一冊の書物であり、著者のインタビューで語られるのも一冊の書物に対するものです。それは書物という単位を取り巻く空間——すなわちパラ書物の水準——に存在しています。

 パラテクストはペリテクストとエピテクストから構成されていますが、エピテクストは、テクストの水準を超えた書物の水準に属していることから、パラ書物の一部として位置づけ直すことができます。これはジュネットの公準の中に潜在的に含まれていた水準の重なりについて、次元を増やして解きほぐす解釈です。

 代表的なパラ書物はコレクションや叢書でしょう。誰かの意図によって集められた書物はそのコレクションの文脈において意味を生み出します。叢書は出版者がある意図を持ったシリーズとして書物を扱います。テクスト本文を書物を超えた位置から支えています。

パラ書庫(parabibliothèque)

 ビブリオテーク(bibliothèque)とは本が秩序を持って並んでいる空間(本が物質的に安定して配置されている場所)を表します。それに対してパラビブリオテーク(parabibliothèque)とは何でしょうか。それは、司書や排架分類、棚の構成、開架閉架の管理といったビブリオテークの周辺にあるものです。それらは読者がまだ手に取っていないが、書庫のどこかにあるはずの書物に辿り着くための水門の役割を果たしています。

 私たちはビブリオテークとパラビブリオテークの総体のことを、一般に「図書館」や「書店」と呼びます。

著者と読者の接近

 テクストの水準においてパラテクストを生成する主体は著者でした(出版社や編集者はその一部を手伝っています)。しかし、テクストの水準を超えるとパラテクストを生成する主体が変化します。

 書物の水準ではパラ書物を生成する主体として出版社や編集者が前景化します。また、一部の読者がパラ書物の生成に加わります。ジュネットの分類による「他者による非公式のエピテクスト;書評記事」です。

 そして書庫の水準ではパラ書庫を生成する主体は、その蔵書の構成者――すなわち読者――の手に委ねられます。書庫の構成者はテクストの水準では読者でしたが、書庫の水準では著者として振る舞います。著者と読者の境界が揺らぎ、接近する場になります。

 図書館の司書や書店の店主はパラ書庫を構成する役割を担っていますが、その最たるものは個人蔵書家でしょう。個人蔵書家の自らの読書経験に基づいて構成された本棚は、テクスト同士を接近させて文脈を短絡させる、「再び書かれた」存在です。

 

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ポール・ヴァレリー『詩学講義(Cours de poétique)』(Gallimard, 2023)——刊行の経緯と概要

凡例

 本稿は、編者 William Marx による序文・インタビュー(Acta fabula, vol. 24, n° 2, 2023年2月)、Alexandra Follonier による書評論文(Acta fabula, vol. 24, n° 10, 2023年11月)、および コレージュ・ド・フランス等の公開資料に基づいて構成したものであり、Gallimard 刊行の原本(2巻)を直接参照したものではない。本文中のページ番号参照はすべてこれらの二次文献を経由している。ヴァレリーの原文の引用についても、特記のない限り上記文献中の引用に依拠している。

Ⅰ. 書誌と刊行の意義

 Paul Valéry(ポール・ヴァレリー、1871–1945)がコレージュ・ド・フランスの「ポエティック(Poétique)」講座教授として1937年から死去する1945年まで行った講義は、ごく一部を除いて長らく未刊行のままであった。生前に公にされたのは、立候補の際にコレージュ・ド・フランスの教授たちに配布した教育計画書「De l'enseignement de la poétique au Collège de France」と、就任講義の内容をまとめた「Première leçon du cours de poétique」(いずれも Variété に収録)にほぼ限られていた。にもかかわらず、この講義は聴講者を通じて戦後の文学批評に大きな影響を残し、その内容は「神話」の地位を獲得していた。Marx によれば聴講者にはバルト、ブランショ、ボヌフォワ、シオラン、トゥルニエらが含まれていた(Marx, コレージュ・ド・フランス公式インタビュー)。ただし Follonier が注意するように、聴講の頻度や継続性は人によって異なる。

 約80年の沈黙を経て、2023年1月5日、コレージュ・ド・フランス「比較文学(Littératures comparées)」講座教授の William Marx(ウィリアム・マルクス)の編集により、ガリマール社の「Bibliothèque des idées」叢書から全2巻として刊行された。Marx はこの講義をヴァレリーの「最後の大きな作品(dernière grande œuvre)」と位置づけ、「おそらく彼の思想の核心を表現した唯一の作品」であると述べている(Marx, Acta fabula, 2023年2月)。

 書誌データは以下のとおりである。

  • 著者:Paul Valéry(1871–1945)
  • 編者:William Marx
  • 協力者:Andrei Minzetanu、Céline Surprenant
  • 出版社・叢書:Gallimard, coll. « Bibliothèque des idées »
  • 刊行日:2023年1月5日
  • 第1巻:Le corps et l'esprit (1937–1940), 688 p.(EAN 9782072907067)
  • 第2巻:Le langage, la société, l'histoire (1940–1945)(EAN 9782073000156)

 第2巻のページ数について、Acta fabula のインタビュー記事(vol. 24, n° 2)では 751 p.、同誌の書評論文(vol. 24, n° 10)および Babelio, Diacritik 等の複数のソースでは 752 p. と記載されており、揺れがある。現物の奥付による確認を推奨する。

 刊行支援について、奥付(ResearchGate 経由で確認した冒頭ページによる)には次のように記されている。「précieux concours(協力)」として Collège de France および Bibliothèque nationale de France(BnF)、「généreux soutien(支援)」として Fondation Proficio および Centre National du Livre(CNL)。この二層構造は奥付上の記載に基づくものである。

Ⅱ. 資料の性格と編集方針

 本書は、ヴァレリーの講義を完全に復元した講義録ではない。フーコーやバルトの講義録が録音や手稿に基づいてかなりの程度まで復元しているのに対し、本書は性質の異なる複数の資料を組み合わせて講義の内容を多角的に照らし出す構成を取っている。

 ヴァレリーは8年間で約200回(Marx は「près de deux cents」と述べている)の講義を行ったが、完全な形で残るテキストは37回分である。この37回分の内訳は以下のとおりである。

 速記者 Fernande Sergent による速記謄本(sténotypie)が28回分存在する。Sergent はまずガストン・ガリマールに、次いでヴァレリーの友人・秘書であった Monod に委託されて速記を行った(Follonier, Acta fabula, 2023年11月)。ガリマールによる委託は、講義内容を書物として出版する計画に基づくものであった。このうち12回分は、ガリマール社の委託に由来する1938年の講義であり、その存在自体が全く知られていなかったが、Marx がガリマール社の文書管理者に情報を伝えたことをきっかけに文書館から発見された。残る16回分は、Monod の委託に由来する1945年の講義であり、パリの Bibliothèque littéraire Jacques Doucet のヴァレリー文庫に所蔵されていたものの半ば忘れられた状態にあった(Marx, Acta fabula, 2023年2月)。残りの約9回分は、BnF のヴァレリー文庫に保存されたヴァレリー自身の準備ノートのうち、講義一回分の内容をほぼ通しで書き下したものである。

 これに加えて、BnF のヴァレリー文庫に保存された準備ノート約2500枚のうち約4分の1が転写・収録されている。さらに、ヴァレリーがコレージュ・ド・フランスに提出した年次プログラム・要約、および複数の聴講者によるレポートも含まれている。

 Follonier はこの版について、「逐次的転写(transcription diplomatique)の代替よりも、知的内容の復元を優先する」編集方針を取ったと評している(Follonier, Acta fabula, 2023年11月)。Marx 自身もインタビューで、「滑らかで均質なテキスト(un texte lisse, homogène)」を目指したと述べており、ヴァレリーの修正を本文に統合し、草稿生成論的な校訂(édition génétique)ではなく読みやすさを重視した古典的校訂版を志向したことを説明している。各講義には編者による見出しと導入要約が付されており、約1400頁に及ぶ2巻を読者が自在に渉猟できるよう設計されている。

Ⅲ. 講義の主題と構造——個人から社会へ

実験としての講義

 ヴァレリーの講義は、通常の教育的講義とは異なり、研究上の取り組みと不可分な実験的試みとして構想されていた(I, p. 77、Follonier 書評による参照)。Follonier はこの講義を「思考の実験室(laboratoire de la pensée)」と呼び、教育内容が「その対象と同じ素材で構成されている(constitué de [la] même matière que son objet)」(II, p. 310、同書評による参照)と述べている。

 この実験的性格を同時代に観察・記録した数少ない証言として、モーリス・ブランショの時評「La poétique」(Journal des débats, 1942年8月5日。後に Faux pas, Gallimard, 1943 に収録)がある。Follonier はこのテキストから次の一節を引用している。

この講座を、言葉の偶然の魅力、この教えが体現する脱線と冒険の精神から切り離すことは、いまの段階では困難に思える。一見即興的な会話という手段を用いて追求されたこのような方法——定義もほとんど不可能な、そして定義不可能な主題に取り組む探求にとって、あまりに厳格なアプローチは受け入れ難く、発見の逆転や矛盾から守られた計画よりも、意図的な偶然の助けを借りる必要があったのだ——このような方法、精神の本質的な不安定さの像であり、探求の比喩であると同時に手段であるものとして、これ以上に意味深いものがあるだろうか?(Blanchot, Faux pas, 1943, p. 137。Follonier 書評に再引用)

  Marx は、ブランショですらこの講義の全体的な一貫性を把握できなかったと指摘している。口頭で数年にわたって展開される即興的な思索から、体系的な構造を読み取ることは同時代の聴講者にとって困難であった。Marx によれば、この版の「第一の成果」はまさにこの一貫性を可視化したことにある——ヴァレリーが1890年代初めから『カイエ(Cahiers)』のなかで構築しはじめた「システム(Système)」(ヴァレリー自身の用語)の完全な構造が、この講義において初めて書物として展開されたのだと Marx は論じている(Marx, Acta fabula, 2023年2月)。

8年間の展開——「システム」の段階的拡張

 Marx のインタビューに基づき、講義8年間の主題的展開を以下に概述する。

 第1巻(1937–1940年)は講義の最初の3年間を収める。Marx によれば、第1年目はイメージ、記憶、感情といった感受性の産物を通じた精神の機能の検討に充てられた。第2年目は、創造行為を可能にする意識的行為の研究に進んだ。第3年目(1939–40年)は開戦により講義が部分的に中断され、ヨーロッパの危機と知識人の責任についての考察が展開された。ガリマール社の公式紹介文はこの時期について「第二次世界大戦への突入が、ヨーロッパと知識人の将来についての衝撃的な省察を生んだ」と記している。

 第2巻(1940–1945年)は占領期から解放にかけての5年間を収める。Marx によれば、内的言語(langage intérieur)の問題が個人的創造と集団的創造を架橋する主題として浮上し、言語の社会的機能——制度・法・宗教の基盤としての言語——の分析に進んだ。さらに社会、文化、歴史への一般的考察を経て、最終年に総括が試みられた。最終年には悲劇論の展開が予定されていたが、ヴァレリーの病によって1945年3月に講義は中断され、4か月後にヴァレリーは死去した。

 この展開は、Marx の表現を借りれば、「個人の精神の機能から社会的な機能全般へと至る思索の道程」であり、ヴァレリーは講義の制度的な制約のもとで——しかし Marx が言うように「ヴァレリーは制約の人であり、つねに制約のもとで仕事をしてきた」——このシステムを段階的に展開することを「余儀なくされた(amené sous la contrainte)」(Marx, Acta fabula, 2023年2月)。

 Marx はこの講義の学際的射程を強調している。ヴァレリーの理論は哲学のみならず認知科学、社会学、経済学、法学、歴史学の知見を取り込んでおり、20世紀前半の社会科学の発展を反映している。Follonier は Marx の序文を参照しつつ、この講義を「精神の生の全的人類学(anthropologie totale de la vie de l'esprit)」(I, p. 44、Follonier 書評による参照)と特徴づけている。

Ⅳ. 概念的背景——Discours sur l'esthétique(1937)における三つの「山」

 Cours de poétique の概念的基盤を理解するための補助線として、同年(1937年)の別の場でヴァレリーが提示した概念整理を参照する。以下は Cours de poétique の内容そのものではなく、ヴァレリーがコレージュ・ド・フランスの講座開始と同時期に、第2回国際美学・芸術科学会議で行った講演「Discours sur l'esthétique」(Variété IV, NRF, Gallimard, 1938, pp. 235–265)における議論である。原文は Classiques des sciences socialesのデジタル版で閲覧可能である。

伝統的美学への批判

 ヴァレリーはまず、哲学が「美(le Beau)」を感覚的な事物から切り離し、抽象的に考察してきた歴史を概観する。その帰結として伝統的な美学(Esthétique)は「美を美しい事物から分離する」という逆説に陥ったと批判した。この批判を踏まえてヴァレリーは、美学文献を「山(tas)」に分類するという比喩を用いて、みずからの概念整理を提案した。

第一の山——Esthésique(エステジック)

 ヴァレリーは第一の群を「Esthésique」と命名した(「que je baptiserais : Esthésique」)。これはギリシア語 aisthēsis(感覚)に由来する造語であり、感覚の研究——とりわけ「一様で明確な生理学的役割を持たない感覚的刺激と反応(les excitations et les réactions sensibles qui n'ont pas de rôle physiologique uniforme et bien défini)」の研究を扱う。すなわち、生存に不可欠な感覚ではなく、余剰的・非機能的な感覚的反応の領域である。ヴァレリーはこれを「我々の宝(notre trésor)」と呼び、芸術のすべての豊かさはこの資源から汲まれるとした。

第二の山——Poétique / Poïétique(ポエティック/ポイエティック)

 第二の群には「作品の制作に関わるすべて(tout ce qui concerne la production des œuvres)」が集められる。ヴァレリーはこれを次のように定義した——「心理的・生理学的根源から物質や個人への働きかけに至る、人間の行為全体の一般的観念(une idée générale de l'action humaine complète, depuis ses racines psychiques et physiologiques, jusqu'à ses entreprises sur la matière ou sur les individus)」。具体的には、発明と構成の研究、偶然・反省・模倣・文化・環境の役割、さらに技法・工程・道具・素材・手段の検討と分析がここに含まれる。

 注目すべきは、ヴァレリーがこの第二の群に名前を与える際の言い方である——「私はこれを Poétique、いやむしろ Poïétique と名づけよう(que je nommerais Poétique, ou plutôt Poïétique)」。「Poétique」はアリストテレスの「詩学」(Περὶ ποιητικῆς)のラテン語・フランス語訳を通じて定着した語であるが、ヴァレリーはギリシア語 poiein(作る)の語源的意味を回復するために、綴りを「Poïétique」に改めた。コレージュ・ド・フランスの講座名として採用された公式名称が「Poétique」であるのに対し、ヴァレリーが自身の準備ノートにおいてこの講義を「Cours de Poïétique」と呼んでいたことは、ITEM(ENS/CNRS)のヴァレリー研究チームが指摘するとおりである(「par lui rebaptisé "Cours de Poïétique"」、ITEM セミナー紹介文)。BnF のヴァレリー文庫における資料分類が「XIII POÏETIQUE」の項目のもとに「Cours de poïétique」を配置している事実も、この改称がヴァレリー自身の意図的な選択であったことを裏づけている(BnF, Archives et manuscrits, NAF 19086–19104)。

第三の山——絡み合いの領域

 ヴァレリーはこの二分法を提示した直後に、その不十分さを認めている。「この分類はかなり粗い。また不十分でもある。少なくとも第三の山が必要だ——私のエステジックと私のポイエティックが絡み合う問題を扱う著作が積まれる山が(Il faut au moins un troisième tas où s'accumuleraient les ouvrages qui traitent des problèmes dans lesquels mon Esthésique et ma Poïétique s'enchevêtrent)」。感じること(Esthésique)と作ること(Poïétique)が分離できない領域の存在を認めたのである。

 さらにヴァレリーは、「この指摘を自分自身にしてみると、自分の試みが幻想的なものではないかと恐れが生じる(cette remarque que je me fais me donne à craindre que mon propos ne soit illusoire)」と述べた。体系の完結を宣言するのではなく分類の限界を自ら指摘しつつ語り続けるこの身振りは、Cours de poétique 全体を貫く実験的性格と通底するものである。

Ⅴ. Cours de poétique の概念的特徴——二次文献に基づく整理

 以下は、原本を直接参照できない制約のもと、Follonier 書評および関連学術論文に基づいて整理した Cours de poétique の概念的特徴である。引用のページ番号はすべて二次文献を経由している。

制作・消費・作品——三項関係と意外な選択

 Follonier によれば、ヴァレリーは Cours de poétique において、制作(production)、消費(consommation)、作品(œuvre)の三項関係を分析の枠組みとして設定した。この三項のうち、ヴァレリーは制作と消費の二要素の研究を優先し、作品については「最も面白くない(le moins intéressant)」(II, p. 408、Follonier 書評による参照)として退ける立場を表明した。形式主義の擁護者とみなされてきたヴァレリーの筆としては意外な選択であると、Follonier は指摘している。

 なお、ヴァレリーが作品を「退けた」と宣言したにもかかわらず、実際の講義では文学的形式を正面から論じた回も複数存在していた。Follonier は、詩の統一性、悲劇論、文体論、散文論など、講義内に「ポエティック」の語の通常の用法に近い議論が散在していることを詳細に指摘している。宣言と講義の実態との間にはずれがあり、この緊張関係そのものがヴァレリーの思索の特質であるとも言える。

美的無限性(l'infini esthétique)

 ヴァレリーの概念のなかで、制作と受容の交差を端的に示すのが「美的無限性(l'infini esthétique)」である。ヴァレリーは 1934 年のテキスト「L'infini esthétique」(Art et Médecine, 1934 年 2 月初出。後に Œuvres, t. II, Bibliothèque de la Pléiade, pp. 1342–1344 に収録)において、日常的知覚と審美的経験の根本的な差異を次のように論じた——日常的知覚においては、感覚的刺激が安定と均衡へ向かう(不快をゼロに戻す傾向がある)のに対し、審美的経験においては「満足が欲求を再生させ、応答が要求を再生させ、現前が不在を生み、所有が欲望を生む」(同テキスト。原文は Classiques des sciences sociales のデジタル版で閲覧可能)。知覚の効果が自己強化的に循環する、この構造をヴァレリーは「美的無限」と呼んだ。Jean Hytier はこの概念群を「効果の理論(théorie des effets)」として体系的に整理している(Hytier, La Poétique de Valéry, Paris, Armand Colin, 1953, 2e éd. 1970)。

 Cours de poétique においてもこの概念は中心的な位置を占めている。Follonier の書評によれば、第 3 回講義でヴァレリーはこれを芸術の本質的要素として次のように定式化した——芸術には「感覚的事物のシステムを組織するという企図——それらが引き起こす欲求を決して満たすことなく、自らを再び求めさせるという特性を持つシステム」が含まれる。「創造は、自分自身への欲望を生み出す対象を産出することを目指す。これこそ私が美的無限と呼ぶものであり、芸術作品を人間の他の作品から最も明確に区別するものである(C'est ce que j'appelle l'infini esthétique et qui distingue le plus nettement l'œuvre d'art des autres œuvres de l'homme)」(I, p. 154、Follonier 書評による参照)。

 Follonier は、同種の考察が Variété 所収の「Notion générale de l'art」(1935 年)や「Réflexions sur l'art」(1935 年)にも見られることを指摘しており、Cours de poétique はこれらの先行テキストを教育的文脈で再展開したものと位置づけられる。

 さらに、この循環構造は受容者の側だけでなく制作者の側にも存在するとする議論がある。クロード・テリアン(Claude Thérien)は、ヴァレリーの美学における感覚的受容と制作の関係を論じた研究論文(« Valéry et le statut "poïétique" des sollicitations formelles de la sensibilité », Les Études philosophiques, 2002/3, n° 62)において、ヴァレリーにおける Esthésique と Poïétique が「不可分の全体(un tout indissociable)」を形成しており、制作のなかに受容の契機が、受容のなかに制作の契機が含まれると分析している。この相互浸透の構造は、Discours sur l'esthétique で第三の「山」として想定された Esthésique と Poïétique の「絡み合い」を具体的に展現する概念として読むことができるが、ヴァレリー自身がこの二つのテキスト(Discours sur l'esthétique と Cours de poétique 第3回講義)を明示的に結びつけているかどうかは、手元の資料からは確認できなかった。

 Compagnon はこの循環構造が、講義全体を貫く「精神の経済学(économie spirituelle)」の枠組みの中心に据えられていたことを指摘している。作品は「それ自体が満たそうとするところの欲求を創出する」(II, p. 139、Compagnon 論文による参照)という自己言及的な循環と形容した。

「精神の生の全的人類学」としての射程

 Follonier は Cours de poétique の全体的性格を、「本質的に精神的事象の社会学的・経済学的理論(essentiellement une théorie sociologique et économique des choses de l'esprit)」と特徴づけている。テキストの内的形式の分析よりも、精神がいかに作り、いかに感受するかという動的過程、そしてその過程が社会的制度のなかでいかに機能するかに力点が置かれている。ヴァレリーが用いる「知的資本(capital intellectuel)」「証券取引所(bourse de valeurs)」「ハビトゥス(habitus)」といった概念群は、この社会学的・経済学的な射程を端的に示している(いずれも Follonier 書評による参照)。

 Marx はこの講義が、フッサールの現象学、ヴィトゲンシュタインの哲学批判、ブルデューの社会学的分析、さらには今日の神経科学の研究と驚くべき共鳴を示すと述べている。ただし Marx 自身が強調するように、これは系譜的な影響関係の主張ではなく、独立に並走する思考の並行性の指摘である(Marx, Acta fabula, 2023年2月)。

Ⅵ. 刊行後の学術的展開

ITEM によるセミナーと草稿研究

 ITEM(Institut des textes et manuscrits modernes, ENS/CNRS, UMR 8132)のヴァレリー研究チームは、刊行に先立つ2022年から「Cours de Poïétique」を対象とする研究セミナーを開始し、BnF に所蔵された準備ノートを対象とする草稿研究を本格化させた。2023年のセミナー紹介文によれば、目標は Cours de poétique のオンライン概念辞典(dictionnaire notionnel en ligne)の刊行と、Revue des Lettres Modernes「Paul Valéry」シリーズ(Classiques Garnier)での論文集の出版である。

国際コロック「Valéry au Collège de France」

 2023年6月15〜16日(14日はプレイベントとして Mon Faust のテレビ放映版の上映)、コレージュ・ド・フランスにおいて、William Marx と Matilde Manara の企画による国際コロックが開催された。Marx 自身がこれを「刊行から半年での最初の本格的な総括(un premier bilan, six mois après la parution)」と位置づけている。神経科学者の Jean-Pierre Changeux、心理学者の Olivier Houdé、哲学者の Claudine Tiercelin、文学研究者の Antoine Compagnon、Jonathan Culler、Gilles Philippe らが分野横断的に参加した。また日本からは塚本昌則、森本淳生が寄稿している。

 成果は論集 Valéry au Collège de France(éd. W. Marx et M. Manara, Paris, Éditions du Collège de France, coll. « Faire savoir », 2025, 304 p., ISBN 978-2-7226-0827-6)として刊行されている。同書はOpenEdition Booksで部分的にオープンアクセスで公開されている。

Ⅶ. 参照リソース

 以下に、本稿の執筆に用いた主要な公開リソースを掲げる。

本書に関する学術的評価

ヴァレリーの美学・詩学に関する先行研究

  • Hytier, Jean, La Poétique de Valéry, Paris, Armand Colin, 1953 ; 2e éd. 1970(ヴァレリーの「効果の理論」を体系的に整理した研究書)
  • Thérien, Claude, « Valéry et le statut "poïétique" des sollicitations formelles de la sensibilité », Les Études philosophiques, 2002/3, n° 62, pp. 353–369(ヴァレリーの Esthésique と Poïétique の不可分性を論じた論文)

コレージュ・ド・フランス関連

刊行後の研究成果

  • Marx, William et Matilde Manara (éd.), Valéry au Collège de France, Paris, Éditions du Collège de France, coll. « Faire savoir », 2025(コロック論集、部分的オープンアクセス)
  • Compagnon, Antoine, « Le serpent se mord la queue », in Valéry au Collège de France, éd. W. Marx et M. Manara, Paris, Éditions du Collège de France, 2025(美的無限の循環構造と「精神の経済学」を論じた論考)

一次資料

ITEM(ENS/CNRS)ヴァレリー研究

 

本稿PDF版:

drive.google.com

『旧修辞学 便覧』見出し翻訳対照表

ロラン・バルト『旧修辞学 便覧』の見出し原文と翻訳の対照表である。

docs.google.com

*1:なお、公式ページに掲載されている目次は原書に忠実でない点(転記ミス、誤植)があるため注意が必要である。「techné」から「techne」への表記変更、「綱目」と「網目」の混同、「仮定」から「過程」への転記ミス等。

ハイパーメディアコミュニケーションの修辞術

 グンナー・リーストルはハイパーメディア上のコミュニケーションの特徴を修辞学との比喩で説明しました。

ハイパーメディアコミュニケーションの修辞術

 この表はロラン・バルトが『旧修辞学 便覧』で示した修辞学の規範的な区分を拡張したものです*1

修辞学の5つの要素

 バルトは同書でActio〔行為〕とMemoria〔記憶〕の操作を分析の対象から除外しました。演説を記憶しておくための戦略とそのドラマツルギーは、〈声〉の文化と深く結びついていた為、文字の文化に移行すると共に失われてしまったからです。

 一方でグンナー・リーストルはActioとMemoriaが現代のハイパーメディア的なコミュニケーションに再び現れることを指摘し、その効果について修辞学(口頭演説)の五つの区分と対置させました。

 著者と読者の相互作用(インタラクション)は、情報空間のナビゲータとして、読者が見当識障害に陥らないための補助記憶装置の役割を果たします*2

 固定された相互テキストが大量に貯蔵され、機械的に伝達されるようになったことで、現代的な著者は、その外部化した記憶を利用していかに物語を創るかという「第二の著者」に変容しています。文字は著者と読者を遠く離しましたが、ハイパーテキストによって両者は再び隣り合うことになるでしょう。

 

Gunnar Liestøl, Wittgenstein, Genette and the Reader's Narrative in Hypertext, Hyper/Text/Theory所収 (ジョージ・P・ランドウ)

https://www.researchgate.net/publication/346788915_Wittgenstein_Genette_and_the_Reader's_Narrative_in_Hypertext

 

 

 

*1:バルトは生の素材である«主題»が「修辞機械(La machine rhétorique)」によって操作されることで、完全で構造化された弁論が現れると説明しました。

*2:サーバ・クライントというアーキテクチャや、マンマシンインターフェースといった思想がそれに相当するものでしょうか

文学空間逍遥

一冊の書物は、流星だ。散り散りになって、幾千の隕石と化す流星だ。その隕石たちのあてどない流れに挑発され、あらたな書物たちが衝突し、再開し、にわかに凝固し、未刊の形質たちは思い思いの線を描き、増補版や改訂版、改正版といった諸々の版が繰り出されてゆくだろう。そう、そこに巻き起こるのだ、広大無辺な星の流れが。

もしテクストが本当に好きであるならば、時折は、(少なくとも)二つのテクストを同時に愛することをどうしても望むはずなのだ。

ばらばらに離れた、不連続な諸々の要素を、連続し、一貫した全体へと転じること、それらの諸要素を 集め、それらを一緒に包含し(一緒に取り扱い)、つまりは、それらを読むことが問題になるやいなや、エクリチュールという仕事は、まさに〈再び書くこと〉と同じになるだろう。エクリチュールとは、常に、そういうものではないだろうか。再び書くこと、さまざまな端緒から出発してひとつのテクストを紡ぐこと。それは、それらの端緒を整理し、互いに結びつけることであり、現前している諸々の要素の間に起こる接合や転移を実現することである。エクリチュールのすべてが、コラージュと注解であり、引用と注釈なのだ。

重要なのは二つの事項をむすびつける過程なのだ。

 ユーザが事項間をむすぶ検索経路を作るときには、その経路に名前をつけてコード表に挿入し、キーボードをたたく。目の前の隣り合った画面に、結合される二つの事項の内容が映し出される。各々の下部に空白のコード記入用の欄が幾つかあり、各々そのうちの一つを指すようにポインタがセットされる。キーを一つたたけば、両事項は永久に結合され、それぞれのコード記入欄にはコード名称が現れる。コード記入欄には、肉眼では見えないが、光電管で読み取るための一組の点群が書き込まれる。すなわち事項ごとに、これらの点群の位置によって相手の事項の索引番号が指示されるわけだ。

 以後はいつでも、こうした事項の一つを映し出しているときに、ただ対応するコード欄の下のボタンを押すだけで、もう一つの事項を即座に呼び出すことができる。さらに、多数の事項が結合されて、一つの検索経路を作っている場合には、本のページをめくるときと同様にレバーを動かして、緩急自在に、それらの事項を次々に眺めていくことができる、これはあたかも、広く散らばった情報源から事項群を物理的に集めて、新しい本を作るようなものである。いや、むしろ新しい本というより、どの事項も多数の検索経路に含まれうるので、それ以上のものといえるのだ。

これらのテクストの摩擦は、実際のところ、二台のタイプライターの間に起こる摩擦でなくて何だろうか。一本のインクリボンが展開されていき、それが、別のもう一本のインクリボンを刺激し、そこに、滑ることのない接触によって、運動を伝達する。第二のリボンは、今度は、別のリボンを動員し、以下同様にして、すべての書物を始動させるに至る。それらは、摩擦を媒介として、最初の書物を反復するのである。

 伯父のこの最新式のアメリカ製の書き物机は、なにか新しい物の象徴としてそこにある。その新しさとは、さまざまに考えることができようが、まず見落とすことができないのは、そこに体現されている機能的に完ぺきな分類方式である。機械仕掛けによって無数の変容をとげてゆくのは、すべて引き出しなのである。これら引き出しは、どんな書類でも、処理できる無限の収納スペースを実現する。しかも、そこに収納されるのはもはや、統一性を保持した書物という単位ではなく、書物の断片としての書類の束である。ベンヤミンの『一方通交路』で、昨今の学者の研究方法を観相学的に判読してみせる。ある学者が一冊の本を書こうとする場合、その書物の内容にかんするポイントは、その著者のカード・ボックスにすべておさまっている。それをもとに、彼は一冊の本を書き上げる。別の研究者は、その書物を読者として読み、研究したうえで、そのポイントをまた自分のカード式索引ボックスに収納する。書物は、もはや今日、ふたつのカード式索引システムのあいだをとりもつ、一介の「周旋屋」にすぎなくなってしまった。ベンヤミンのひそみにならえば、カールの伯父の機械仕掛けの書き物机において、最新型の分類システムに分類され、収納されるのが書物でないのは、けっして偶然などではない。ここで、書類とカードは、書物という統一体の断片として等価である。意味するものの統一体として書物は、意味されるものの超越的先行を前提にしてきたが、その統一性が断片化しているのである。最新の分類システムは、本の統一性という理念を分解してしまうのだ。

電子空間はテキストの独立性よりもむしろ連関を強調することで、参照指示と暗示の可能性を新たなるものに書き換えてしまう。電子テキストでは或る一つのパッセージが別のパッセージを参照しているだけでなく、テキストが折れ曲がってどんな二つのパッセージでも一緒にして隣合わせて読者に提示することができる。また、或るテキストが他のテキストを暗示するだけでなく、別のテキストのなかに入り込んできて一つの視覚的な相互的テキストとして読者の目の前に現れることも可能である。相互テキスト的な関係は印刷のなかでも至るところで生じている。それは小説やゴシック・ロマンスや大衆雑誌や百科全書や文法書や辞書などにおいても生じている。しかし、電子空間によってそれまでいかなるメディアにも可能でなかったような仕方で相互テキスト性を視覚化することが可能となるのである。

古典ラテン語において、compilare〔compile(編集する)の語源〕という語には、略奪する、盗み取る(対象は主として人や建築物であり、テクストについての言及はとくにない)という否定的な意味であった。だが、七世紀までには、セビリァのイシドルスがcompilatorを、「ちょうど顔料を作る人が多くのさまざまな[色素]を乳鉢の中ですりつぶすように、他の人々の言葉を己の言葉と混ぜ合わせる者」という道徳的に中立的な表現を用いて定義した。十三世紀までには、compilareという語は、他のいくつかの語(excerpere〈抜粋する〉、colligere〈結び合わせる〉、deflorare〈花を摘み取る〉)と置き換え可能なものとして効果的に用いられ、手持ちの原典から抜粋集を作ったり、「花々」(すなわち最も優れた断片)を精選したりすることを意味するようになった。

したがって、われわれは、読書によっては文章の語り口や物語の流暢な話し振りや流れるような言語活動の自然さによって眼にみえないように熔接された滑らかな表面しか捉えられない意味作用significationの塊を、小地震のようなやり方で切り離し、テキストにひびを入れるだろう。原テキストの記号表現は切り分けられ、隣り合った短い断片の連続となるだろう。

コンピュータ・テクノロジーによってこうした中断はもっと精緻な形でなされるようになり、時間もかからなくなった。電子図書館においては、書き手は自分が書いているテキストから転じてたやすく別のテキストを読むことができる。自分自身のテキストと、それとは別のテキストという区別はぼやけ始めている。書き手は何であれば読んでいるテキストから自分の文書へカット・アンド・ペーストすることができるからだ。充分に仕上がったハイパーテキストでは、こうした区別は消え失せてしまう。書き手が言語的観念とディスプレイ上でそれを視覚的に表現したものの間をすばやく移動するのであるから、コンピュータは書くという過程そのものをスピード・アップする。書き手の頭の中にある観念のネットワークは、コンピュータ上の表現に融け込む。こうして出来上がった構造は、今度は逆にこのコンピュータや別のコンピュータの中に蓄積されたあらゆるテキストに融合するのである。プラトンが示した内在的記憶と外在的記憶の間の区別――あらゆるライティングの根底にある区別――を、まるでコンピュータが失くしてしまうことができるかのようだ。

 この関係性の読書(二つもしくはそれ以上のテクストを相互に関連させながら読むこと)は、おそらく、流行遅れの言い方かも知れないが私のいわゆる開かれた構造主義を実践する機会となるだろう。というのも、この分野には二つの構造主義があるからだ。一つはテキストの閉域性を前提とし内的構造の解読を目指す構造主義で、これはたとえば、ヤーコブソンレヴィ=ストロースによる〔ボードレール詩篇〕「猫たち」の有名な分析に認められる構造主義である。もう一つはたとえば〔同じくレヴィ=ストロースの〕『神話学』の構造主義で、そこでみとれるのは、いかにしてあるテクスト(ある神話)は「別のテクスト(別の神話)を読む」ことが――こちらが協力してやれば――可能であるか、ということだ。

われわれが求めているのは、一つのエクリチュール(本書では、古典的な読み得るエクリチュールとなるであろう)の立体画的空間をスケッチすることである。複数性を肯定することに基づいた注釈は、したがって、テキストを《尊重》して作業することはできない。原テキストは、自然な分割(統辞論的、修辞学的、逸話的)を何ら考慮することなく、たえず砕かれ、中断されるであろう。目録や評釈や脱線がサスペンスの途中に入り込んだり、動詞とその目的補語、名詞とその属詞を切り離したりすることさえあるだろう。注釈の作業は、それが全体性というイデオロギーから脱するや否や、まさにテキストを虐待し、テキストの発言を遮ることになるのだ。しかし、否定されているのは、テキストの質(本書では、比類のない)ではなく、その《自然らしさ》なのである。

 このことから、単純に、引用文は間テクストの自明な操作子であると理解される。引用は、読み手の能力に訴えかけて、読解という装置を始動させる。読解という装置は、ひとつの引用のうちに、二つのテクスト――その関係は、等価でもなければ、単なる反復でもない――が突きあわせられる形で置かれるやいなや、ある作業を行うはずである。しかし、この作業は、テクストに内在するひとつの現象に依存している。すなわち、引用は、独特な仕方でテクストを掘削し、それを切開し、それを隔てているのである。そこには意味の探求が存在し、読解がその探求を進めていくのである。つまり、それは、ひとつの穴であり、ポテンシャルを秘めたひとつの差異、ひとつの短絡といったものだ。現象とは差異であり、意味とはその差異の解決である。

複合文書の論理は単純である。文書の所有権の概念に基づいているのだ。文書にはすべて所有者がいる。所有者以外の誰も修正できなければ、この文書の一体性は保持される。

 しかし、所有者以外でも好きなだけそこから引用して別の文書をつくることはできる。このメカニズムを〈引用窓〉または〈引用リンク〉と呼ぶ。新しい文書の「窓」を通して、もとの文書の一部を見ることもできる。これを〈トランスクルージョン〉と呼ぶ。

 窓が付けられた(あるいは窓が開いた)文書の窓とは、文書間のリンクのことである。窓を通じて引用されているデータはコピーされない。引用リンクのシンボル(またはこれと本質的に同じもの)が引用しているほうの文書に置かれるだけである。こうした引用はもとの文書のコピーをつくるわけではないので、もとの文書の一体性、独自性、所有権になんの影響も与えない

 

所収

  • 『思考の取引――書物と書店と』ジャン=リュック・ナンシー
  • 『パランプセスト―第二次の文学』ジュラール・ジュネット
  • 『第二の手、または引用の作業』アントワーヌ・コンパニョン
  • 「われわれが思考するごとく」ヴァネヴァー・ブッシュ(『思想としてのパソコン』西垣通
  • 『書物の図像学―炎上する図書館・亀裂のはしる書き物机・空っぽのインク壺』原克
  • 『ライティングスペース : 電子テキスト時代のエクリチュール』ジェイ・デイヴィッド ボルター
  • 『情報爆発』アン・ブレア
  • 『S/Z』ロラン・バルト
  • 『リテラリーマシン ハイパーテキスト原論』テッド・ネルソン

 

 

HATEOASとは何か

RESTにおけるHATEOAS

 それは、REST(REpresentational State Transfer)における、統一インターフェースの一つです*1

統一インターフェース(Uniform Interface)

  1. リソースの識別(identification of resources)
  2. 表現によるリソースの操作(manipulation of resources through representations)
  3. 自己記述的メッセージ(self-descriptive messages)
  4. アプリケーション状態エンジンとしてのハイパーメディアHATEOAS;hypermedia as the engine of application state)

リチャードソンの成熟度モデルにおけるHATEOAS

 それは、RESTへの到達を表すリチャードソンの成熟度モデルにおける、レベル3に相当します。

Steps toward REST

 The point of hypermedia controls is that they tell us what we can do next, and the URI of the resource we need to manipulate to do it. Rather than us having to know where to post our appointment request, the hypermedia controls in the response tell us how to do it.
  ハイパーメディアコントロールの本質は、次に私は何ができるか、リソースのURIに対してどのような操作ができるかを示すことだ。どこにリクエストを送るか事前に知っている必要はない。何をすべきかはレスポンスの中にあるハイパーメディアコントロールが示しているのだから。

「知ること」にとってのHATEOAS

 それは、直感に従って「知ること」を目指すための道標です。

Follow Your Nose

EVOLVE'13 | Keynote | Roy Fielding

RESTから離れて

 SPA(Single Page Application)とRESTの相性が悪いことはよく指摘されます。

 例えば静的なページを対象としたWebクローラは、JSON APIを得意とするSPA(CSR)のクローリングを適切に行うことができません。Googlebotは幸いJavaScriptを実行できますが、タイムアウトの問題を克服しているわけではないので完全とは言い難いでしょう。SSR・SSGといった技術もありますが、単に商業的なSEO対策として利用されるケースが多いようです。

 その他REST的な思想に基づいてJSONをLinked Data*2として拡張する提案が多様にあります。比較的メジャーなJSON-LD(application/ld+json)*3、HAL(application/hal+json)*4、Hydra*5についても浸透しているとは言い難い状況です。これらは人間用とロボット用にWebページを設計する必要があり、開発コストが見合わないことがその要因の一つでしょう。

 SPAを突き詰めるための手段としてのGraphQL*6やgRPC*7は明らかにRESTから遠ざかる方向(SOAPプロトコル*8)を目指しています。人によっては昨今のWebアプリが「打倒ネイティブアプリ!」を掲げているように見えるかもしれません。その象徴がElectron*9でしょうか。

JSON API vs Hypertext API

あるAPI「GET /user?id=1」

{
  "name": "山田太郎",
  "email": "yamada-taro@email.com"
}

 JSON API、素晴らしい!洗練されている!通信のペイロードも少ない!

 しかし、明らかにRESTから遠ざかっています。この情報からは行為の選択肢について何もアフォードされていません。私は次に何をすることができるのでしょう?このユーザに対して何をすることができるのでしょう?

あるAPI「GET  /user?id=1」

<div>
  <div>
    Name: 山田太郎
  </div>
  <div>
    Email: yamada-taro@example.com
  </div>
  <div>
    <a href="/contact/edit">Edit</a>
    <a href="/contact/email">Email</a>
  </div>
</div>

 残念ながらHypertext APIは煩雑なようです。しかし、私ができることは明白です。事前知識が無くても、セマンティクスさえ分かっていれば人間にもロボットにも十分な情報がアフォードされています。

htmx

 htmx*10
トップページには次のような4つの謎めいた提題があります。

  • Why should only a and form be able to make HTTP requests?
    (どうしてaとformだけが唯一サーバと通信できるのでしょう?)
  • Why should only click & submit events trigger them?
    (どうしてクリックとサブミットだけが唯一のイベントトリガーなのでしょう?)
  • Why should only GET & POST methods be available?
    (どうしてGETとPOSTメソッドだけが許されているのでしょう?)
  • Why should you only be able to replace the entire screen?
    (どうして画面全体を書き換えることだけが許されているのでしょう?)

 これらについては作者が動画やエッセイ*11で解説しています。曰くである、non-hypermedia formatからハイパーテクストへの回帰はあるのでしょうか。


www.youtube.com

 

 直感に従ってページの中にあるリンクをクリックすること、それがHATEOASの目指す姿です。

 

recrits.hatenablog.com

 

recrits.hatenablog.com