かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

重なった眼

 

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dubble

  dubbleは、自分の写真と、世界の誰かの写真を多重露光するアプリです。決してカメラ揺籃期とは言えなくなった現代においても、多重露光フォトモンタージュ)という遊戯が生きているということは何を意味するのでしょう。

 偶然性がもたらす「おかしみ」の感覚は未だ私達の中に生きています。

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 dubbleのアイコンを見たとき、とっさにマン・レイの「カザーティ公爵夫人」を思い出しました。偶然撮影された、このブレた写真を見て、夫人は大いに喜んだそうです。

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Man Ray "Marquise Casati"

「カザーティ公爵夫人」から想起する幾つかのイメージ…

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« La Fleur des amants »... "NADJA"

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ses yeux de fougère... "NADJA"

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岡上淑子「宣誓」

 

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「藪睨みのチコ」

 小さな望遠鏡。これをのぞけば世界はひとつになり、遠いものもくっきりと大きく見えます。チコはそれを知って以来、望遠鏡を片時もはなさない少女になりました。
 見ることが大好き。――望遠鏡で遠くを見て、目で旅をする! くっきり間近に感じられる不思議な世界へ、チコは毎日のように出かけていきました。(『扉の国のチコ』巖谷國士,中江 嘉男,上野 紀子)

(…)なぜなら私もまた生まれつきの斜視だからである。ただし医学的には潜伏性と呼ばれるもので、外からはほとんどわからない。外からほとんどわからないだけ無理が生じるのか、チコのように「ときどき」ではなくいつも世界が二重に見えている。自分で焦点をあわせてある物を一つに見ることはできるのだが、その場合にも前景と背景は二重のままである。疲れたときなどは物を一つにして見るのにちょっと時間がかかる。いっそ片目をつぶったしまったほうが楽だ。片目をつぶれば世界はくっきりとひとつに固定され、奥行きはさほどなくてもあざやかな印象をよびおこす。

(…)もっとも、チコの場合と異なっているのは、幼いころには自分の斜視に気づいていなかったことである。つまり、だれもがこんなふうに世界を見ている、あるいは世界とはこんなふうに見えるものである、と信じて疑わなかったようだ。そんなわけで、十代なかばになってたまたま眼科医に斜視を発見され、しかもかなり強度のものだといわれたとき、わずかではあるが衝撃を味わった。自分の見ている世界はどうもふつうとは違うらしいという感覚は、しばらくのあいだ私にいろいろなことを考えさせた。(「チコと望遠鏡」巖谷國士*1

 『扉の国のチコ』の主人公、チコは二重に見える目を持っています。望遠鏡を覗くことによって(片目をつぶることで)世界の輪郭がはっきりとする、そんな感覚が丁寧に描かれています。

  巖谷國士さんの「チコと望遠鏡」を初めて読んだときに、「これは私の文章ではないか!?」と驚きました。なぜなら私も全く同じ経験をしていたからです。あるとき眼科に行って初めて「物が二重に見えるのは普通ではない」ということを知りました。これは私にとって一つの小さな革命でした。

 今でもこうしてリラックスして文章を読むときは片目をつぶるクセがあります。細かい字を追うときは、片目をつぶったほうが見失うことがないのです。

 

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 デュシャンの遺作の扉にある二つの覗き穴から見た世界。私達は否応なしに片目をつぶります…

扉の国のチコ

扉の国のチコ

 
封印された星―滝口修造と日本のアーティストたち

封印された星―滝口修造と日本のアーティストたち

 

 

*1:この文章は元々、グループ展「突然変異達」(1997)のパンフレットに寄せられた序文(「チコと望遠鏡」)のようです。『MUTATIONS 突然変異達/偶然に依る唯虚空論』にも同収録。本エントリのものは『封印された星 瀧口修造と日本のアーティストたち』に同収録の「チコと望遠鏡」から一部引用したものです。

『パランプセスト : 第二次の文学』関係性の読書への誘い

 ジェラール・ジュネット『パランプセスト : 第二次の文学』*1は超テクスト性三部作の第二作目に位置付けられます。ジュネットの手によって結実した文学理論の成果と言えるでしょう。80章からなるこの浩瀚な書物では、テクストの変形・模倣という(あまりにも)ありふれた文学的活動を俎上に載せ、文字の上に重ねられた文字(=パランプセスト)という、未踏でありながら馴染み深い大陸へと、私たちを案内します。

 さて、本書の道程はこのように示されます。まず、探究の対象についてのオリエンテーション(1-5章)。次にこの巨大な大陸で迷わないための地図が渡されます。曖昧な点を含みつつ、6つの領土に区分されることが見てとれるでしょう(6-7章)。その後、私たちの理解に配慮しつつ各領土の調査報告が述べられます。前半は「パロディ」後半は「転移」へ、徐々に明瞭な対象から不明瞭な対象に移行します(8-77章)。そして、この大陸全体を俯瞰することで、超テクスト性への問いを深めます。ジュネットはこの問いを手がかりに、新たな道筋を示してくれることでしょう(78-80章)。

 ロビンソン・クルーソーは、パランプセスト的読書 lecture palimpsestueuse へと誘います。この大陸は今なお、そしてこれから先も、一冊の《書物》として私たちを待ち構えているのです。

パランプセスト―第二次の文学 (叢書 記号学的実践)

パランプセスト―第二次の文学 (叢書 記号学的実践)

 

はじめに

探求の対象(1~2章)

 テクストは五つのタイプの超テクスト性を備えている。相互テクスト性、パラテクスト、メタテクスト性、イペルテクスト性、アルシテクスト性である。本書が主に対象とするのはイペルテクスト性である。

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 イペルテクスト的実践の代表例として、『アイネーイス』『ユリシーズ』が挙げられる。これらの作品は『オデュッセイア』の筋を基にしたことで知られている(つまり『オデュッセイア』はイポテクスト hypo texte であり、『アイネーイス』『ユリシーズ』はイペルテクスト hypertexte である)。では『アイネーイス』と『ユリシーズ』が行った文学的操作は同じものだろうか。

 こういった先行テクストと後続テクストについて、その関係性の次元を探究するのが本書の目的である。

 探求は正式なイペルテクスト(全体的で明瞭な実践)から始め、次いで正式でないイペルテクスト(部分的であったり、不明瞭なもの)へと向かう。*2

パロディの歴史(3~5章)

 パロディとは何か。初期の文献であるアリストテレスの『詩学』の定義から振り返る。アリストテレスは作品内容の社会的品位の水準と、語りの様式によって、ジャンルを四分類する(悲劇/叙事詩/喜劇/パロディ)。この内の一つがパロディである。しかし、正当な文学ジャンルとして認められないかのように、具体的な作品名が挙げられず、深い考察から外されている。*3

 その後「パロディ」はより広範な意味として一般に定着することになる。特に点的な装飾として、修辞学の一技法として捉えられた。詩句の一部や、歴史的な言葉、諺といった短いテクストを変形させる操作のことを、今でも「パロディ」と呼称することが多い。

イペルテクスト的実践の総合的一覧表(6~7章)

 アリストテレスの『詩学』以降のパロディの歴史を整理した上で、文学の古典的な一般的公準を表1のように図式化する。

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 また、現代におけるパロディの一般的な受容については表2のように示すことができる。

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 以上の分類によって考察を進めた場合、用語に混乱が生じることは明らかである。これを回避するために、次のように構造的な定義を提案する。

 最小の変形を伴ったテクストの逸脱をパロディ parodie 、品位を低下させる風刺的機能をもった文体上の変形を戯作 travestissement 、風刺的なパスティシュを風刺 charge 、風刺的機能を欠いた文体の模倣をパスティシュ pastiche 。最初の二つを変形 transformation の関係、残り二つを模倣 imitation の関係として表すことができる。

 構造的な整理はできたものの、考察を進める上では不十分な状態である。更に風刺的/遊戯的/真面目という三つに体制に変形することでより正確な分類が行えるようになる(真面目な変形である転移 transposition と 真面目な模倣である偽作 forgerie が加えられる)。かくして、イペルテクストの領土を探検してまわるための地図が完成した(表6)。

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変形(パロディ・戯作)

いくつかのパロディ(8~11章)

 幾つかのイペルテクスト的実践について述べられる。特にシュルレアリスム運動の流れから生まれたウリポ*4の言語実践が挙げられる。

ビュレスクな戯作と現代の戯作(12~13章)

 戯作について述べられる。戯作とは現在化の一種であり、一時的、過渡的なものに過ぎない。つまり月日の経過によって現在性、有効性を失うことと表裏一体である。

模倣(風刺・パスティシュ・偽作)

模倣に関する前置き(14章~16章)

 模倣の効果と性質について述べられる。模倣は「~イズム」の言い換えとして表すことができる。風刺・パスティシュ・偽作の体制を区分する前に、模倣のあらゆる点的な特徴をミメチスム mimétisme 、模倣的テクストを mimotexte と呼ぶことを提案する。

 パスティシュとは遊戯的体制の模倣であり、その支配的機能は純粋な気晴らしである。風刺とは風刺的体制の模倣であり、その支配的機能は嘲弄である。偽作とは真面目な体制の模倣であり、その支配的機能は先行する文学的遂行の継続ないし拡大である。

風刺とパスティシュ(17~26章)

 風刺とパスティシュについて述べられる。これらの体制を明確に区分することは困難であることが示される。

偽作における継ぎ足し(27~38章)

 偽作について述べられる。特に偽作において特徴的な「継ぎ足し」の歴史が述べられる。継ぎ足しの例として、連作的な継ぎ足し、不忠実な継ぎ足し、破壊的な継ぎ足し、補遺、続き、エピローグといった実践が挙げられる。

ジャンルの再活性化としての模倣(39章)

 模倣は明白にジャンルの伝統と結び付けられる。ジャンルは時代的な現象であり、歴史的な情況を伴う。また、往々にして成功の流れへの便乗(「二匹目のドジョウ」)によって進展する。

 模倣の実践は脈々と受け継がれるジャンルを継承することに限定されない。つまり、人々に見捨てられたジャンルを数世紀を経て一人の作者が蘇らせることもあるからだ。

変形(転移)

転移に関する前置き(40章)

 転移の実践は歴史的重要性においても、美的達成度の点からも、イペルテクスト的実践でもっとも重要である。他の実践(パロディ、戯作、パスティシュ、風刺、偽作)はいずれも機械的原理や機能上の変換の結果から生まれたものである。また短いテクストを対象とすることが大半である。転移に関しては『ファウスト』や『ユリシーズ』のような大規模な作品として実践される。

 転移に関しては内的範疇化(下位分類)が行われる。形式的転移から、意味的転移へと検討を進める。これらは重要性(変形によるイポテクストの意味への介入度の強さ)が次第に大きくなる順に並べている。ただし、その分類基準は曖昧である。

形式的転移(41章~60章)

 形式的転移の内的範疇化と、その実践作品が述べられる。

  • 翻訳
  • 韻文化 versification 、散文化 prosification
  • 韻律変換 transmétrisation
  • 拡大 augmentation 、縮小 réduction
  • 相互様式変換 transformation intermodale 、様式内変換 transformation intramodale

意味的転移(61章~77章)

 意味的転移の内的範疇化と、その実践作品が述べられる。

  • 物語世界的転移、語用論的転移
  • 動機変換 transmotivation
  • 価値変換 transvalorisation
  • 補遺 supplément

終わりに

許容しえないイペルテクスト(78章)

 この先に探求すべきことは明らかである。未知のイポテクストをもったイペルテクスト。このテクストは記述不可能な、確定不可能なイペルテクストである。この許容しえないイペルテクストへ通じる一つの道、それは虚構のイポテクスト、疑似イポテクスト pseudhypotexte である。

イペル美学的実践(79章)

 イペルテクスト的実践は美学の領域へ広がる。絵画、音楽、演劇における実践の一部を示す。

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モナ・リザレオナルド・ダ・ヴィンチ

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LHOOQ(マルセル・デュシャン

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モナ・ダリ(フィリップ・ハルスマン)

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三十は一よりまし(アンディ・ウォーホル

 


Domenico Gallo - Trio sonata No. 1 in G [w/ score]


Stravinsky: Pulcinella (complete)

終わり――パランプセスト的読書(80章) 

 イペルテクスト性とは何か、超テクスト性とは何か。再び問う。

 あなたがもし本当にテクストが好きなら、二つのテクストを同時に愛することを、時にはどうしても望むはずだろう。倒錯的な――イペルテクスト的読書を。

目次

第一章   五つのタイプの超テクスト性と、その一つとしてのイペルテクスト性
第二章   いくつかの前置き
第三章   アリストテレースにおける《パローイディアー》
第四章   パロディの誕生?
第五章   文彩としてのパロディ
第六章   一般的公準ウルガータ)の作成
第七章   イペルテクスト的実践の総合的一覧表
第八章   短いパロディ
第九章   ウリポの遊戯
第十章   『言い換えれば』
第十一章  『毎秒六百八十一万リットルの水』

第十二章  ビュルレスクな戯作
第十三章  現代の戯作

第十四章  文彩としての模倣
第十五章  テクストの直接的模倣は不可能であること
第十六章  ミモテクストにおける困難な体制の区別
第十七章  風刺
第十八章  パスティシュ
第十九章  プルーストによるフローベール
第二十章  パスティシュの変奏
第二十一章 自己パスティシュ
第二十二章 虚構のパスティシュ
第二十三章 英雄滑稽詩
第二十四章 混合的パロディ
第二十五章 反小説
第二十六章 『ボギー、俺も男だ』

第二十七章 『魂の狩り』
第二十八章 継ぎ足し
第二十九章 マリヤンヌの結末、ジャコブの結末
第三十章   『ラミエル完結篇』
第三十一章 連作的な継ぎ足し
第三十二章 『アイネーイス』、『テレマックの冒険』
第三十三章 「アンドロマケー、私はあなたを思う」
第三十四章 不忠実な継ぎ足し
第三十五章 破壊的な継ぎ足し
第三十六章 『不在の騎士』
第三十七章 補遺
第三十八章 続き、エピローグ、『ワイマールのロッテ』
第三十九章 ジャンルの再活性化

第四十章  転移
第四十一章 翻訳
第四十二章 韻文化
第四十三章 散文化
第四十四章 韻律変換
第四十五章 文体変換
第四十六章 量的変形
第四十七章 切除
第四十八章 簡潔化
第四十九章 凝縮
第五十章  ダイジェスト
第五十一章 プルーストからシェイケヴィッチ夫人へ
第五十二章 ボルヘスにおける擬似要約
第五十三章 拡張
第五十四章 膨張
第五十五章 増幅
第五十六章 曖昧な実践
第五十七章 相互様式的な様式変換
第五十八章 ラフォルグの『ハムレット
第五十九章 様式内の様式変換
第六十章  『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』
第六十一章 物語世界的転移――まずは性から
第六十二章 近接化
第六十三章 語用論的変形
第六十四章 『ドン・キホーテ』の作者ウナムーノ
第六十五章 動機化
第六十六章 脱動機化
第六十七章 動機変換
第六十八章 ヘレネー礼讃
第六十九章 二次的価値化
第七十章  一次的価値化
第七十一章 脱価値化
第七十二章 『マクベト』
第七十三章 『テレマックの冒険』の作者アラゴン
第七十四章 『オデュッセイアの誕生』
第七十五章 価値変換
第七十六章 『ペンテシレイア』
第七十七章 新しい補遺
第七十八章 形容しえないイペルテクスト
第七十九章 イペル美学実践
第八十章  終わり

*1:Palimpsests: Literature in the Second Degree,1982

*2:ジュネットは当初、正式なイペルテクストのみを研究の対象にしようと試みたが、結果的に探求の範囲をはるか遠方にまで広げてゆかなければならなかったという。

*3:これについては『アルシテクスト序説』に詳しい

*4:潜在的文学工房 Ouvroir de Littérature Potentielle(Oulipo)

『ディアーナの水浴』失われたかがやきを求めて

 『ディアーナの水浴』はピエール・クロソウスキー(Pierre Klossowski)によって著された、神話に関する注釈書です。

 クロソウスキーは「ディアーナの水浴」の神話が後年の解釈によって戯画化、あるいは通俗化されてしまったといいます。この出来事は単なる「覗きの光景」ではなく、「見る(見られる)」ことによって起こる人と守護霊(ダイモン)と神の精神的なダイナミズムが描かれているのだ、と。

 この主張をするに至る本書のエピグラフと緒言において、クロソウスキーはあたかも霊媒師のようです。イポテクストを幻視する者として、「永遠に遠ざかってしまった星座の光」を、追憶によってかがやかせようとしているのです。

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Diane de Versailles

エピグラフ

 さあ語れ、衣を脱ぎ捨てたわたしを見たと、
もしお前にできるものなら、してみるがよい!
オウィディウス 転身物語 Ⅲ

(緒言)

 わたしはディアーナとアクタイオーンについてあなた方に語りたい。この二つの名がわが読者の精神のうちにとりどりに呼びさますものはある情況か、いくつかの姿態か、いくつかのかたちか、要するにタブローの一モチーフでこそあれ、伝説のモチーフであることはまずあるまい、なぜなら、百科辞典によって通俗化されたイメージと物語が、この二つの名をーー前者は消え去った一人類の眼差に対して神性がとった数知れぬ名のひとつであったというのにーー闖入者によって虚をつかれた女たちの水浴というただそれだけのヴィジョンにすぎなくしてしまったからだ。それでもこのヴィジョンは、《われわれがかつてもった最良のもの》ではないまでも、少なくとも想像することのもっともむずかしいものではある。だが、わが読者にしてもし追憶、そして他の追憶によって伝えられた追憶を完全に失くしていないならば、この二つの語は突如、かがやかしさと感動の炸裂のようにきらめくことができるだろう。この消え去った人類、消え去ったということば自体ーーわれわれのあらゆる民俗学、あらゆる博物学にもかかわらずーーもはや意味をなさないほどに消え去ったこの人類はそもそも存在することさえどうやってできたのだろうか。にもかかわらず、この人類が歩きながら夢見たこと、アクタイオーンの眼を夢見るまでに醒めた夢の中でこの人類がアクタイオーンの眼によって見たものは、われわれにとっては光を消し、永遠に遠ざかってしまった星座の光として、われわれのもとにまでとどいている。ところで、この砕け散った星辰が閃光を放つのはわれわれのうちでである、それはわれわれの記憶の暗闇の中、われわれが胸中に抱きながら、われわれの偽りの白日の中でのがれる大いなる星座の中でなのだ。白日の中で、われわれはわれわれの生きた言語に頼っている。しかし、ときとして、日常使われていることばの合間に死んだ言語のいくシラブルかがすべり込む、白昼の炎の、蒼天の月の、あの透明さをもつ亡霊である語。だが、ひとたびわれわれがこれらの語をわれわれの精神の薄暗がりの中にかばってやるや、それらは強いかがやきを帯びるのだ、こうしてディアーナとアクタイオーンの名が一瞬、樹々に、渇いた鹿に、波、この触れえない裸身を映し出す鏡に、それらのかくされた意味を取り戻してやらんことを。

 

ディアーナの水浴』 ピエール・クロソウスキー

ディアーナの水浴

ディアーナの水浴

 

続・枯尾花の時代

 

 テクストにも枯尾花の時代*1があるのでしょうか。たとえそんな時代でも、私はテクストの幽霊を見続けていたいのです。

 近親相姦的な料理本の世界では、盗作という概念は存在しないらしい。新たにローズマリーの小枝でもそろえれば、そのレシピは自分のものになる[5]。だが文学の世界のルールはもっときびしいーーことになっている。引用符を使うのがきらいだったり、日記に記した流麗な文章が実はフローベールの書いたものであることを「忘れ」たり、ローズマリーの小枝をそろえる程度にことばを変えることで、所有権が自分に移ったと思いこんだりするものは、よく知られているベンジャミン・ディズレーリのひとりよがりな(holier-than-thou[6])せりふのように、「人の知性の盗人[7]」である。

 

 [5]この文章はダン・オクレトンから盗んだ。ただし「小さじ一杯」を「小枝」に変えることにより、わたしのものにした。

 [6]イザヤ書 六五:五 「わたしはあなたと区別されたものだから(I am holier than thou)」*2

 [7]わたしはディズレーリのこの文句を、トマス・マロンの知性から盗んだ(『盗まれたことば』一九八九年)。マロンとアレグザンダー・リンディー(『剽窃と独創性』一九五二年)が指摘しているように、ディズレーリ自身がウェリントン公爵のための追悼演説の一部を、ルイ・アドルフ・ティエールによるサン・シール元帥への追悼演説からとっていることを考えると、この高邁なことばも説得力に欠ける。

 

(『本の愉しみ、書棚の悩み』日の下に新しいものはない *3 アンディ・ファイマン)

  私たちは、普段見聞きした言葉を意識せずに内面化しています。言葉を意識と無意識の中間に蓄積し、引き出しているのです。アンディ・ファイマン(『本の愉しみ、書棚の悩み』)が言うように、私たちは言葉を引用や改変で成り立たせ、また往々にしてその事実を「忘れ」たことにしています。潜在的に「知の盗人」たらざるをえないのです。

 もし思考が言葉に縛られるのであれば、真に自由な思考は存在しないということに帰結します。一角獣が姿を現したかと思えば、幽霊の正体見たり枯尾花という訳です。無間のデジャヴに包まれながら…

 『羊をめぐる冒険』の「本歌」は『ロング・グッドバイ』です。勘違いして欲しくないのですが、それは村上春樹レイモンド・チャンドラーを「模倣した」ということではありません。物語を書いているうちに、登場人物たちがそのつどの状況で語るべき言葉を語り、なすべきことをなすという物語の必然性に従っていたら「そういう話」になってしまった。それだけこの物語構造は強い指南力を持っていたということです。

 これは特定の作家に閉じた話ではありません。津々浦々の文学作品で起こる現象です。こういった現象は何故起こるのでしょう。これは文学の文脈における問いです。つまり、何が模倣で、何が模倣でないのかという境界に関する問いです。

 内田氏はこの現象を暗黙の模倣(すなわち剽窃plagiat暗示allusion)ではなく、「物語的原型」であると指摘します。これについてはジェラール・ジュネットの「第二次のテクスト」が問題を紐解く一つの鍵になるはずです。 

〔イペルテクスト性とは〕第二次のテクスト、もしくは、あらかじめ存在する他のテクストから派生したテクスト、という一般的な概念を提出しておこう。(…)たとえば、AについてBはまったく語ってはいないが、AがなければBはそのままの状態では存在していられないであろうといった場合であり、やはり暫定的に私が変形transformation 命名する操作の結果としてBはAから生じ、それゆえBはAを程度の差こそあれ公然と、必ずしもそれについて語ったり引用したりすることなしに喚起するわけである。『アイネーイス』と『ユリシーズ』はおそらく、程度の差はあれたしかに種々の理由からして、一つの同じイポテクスト――もちろん『オデュッセイア』――の(数ある中の)二つのイペルテクストなのである

 

(『パランプセスト : 第二次の文学』五つのタイプの超テクスト性と、その一つとしてのイペルテクスト性 ジェラール・ジュネット

 仮に言語が複製(暗黙の模倣)を繰り返す機械であれば、真に自由な思考は存在し難いと言えます。しかし現に、私たちは、普段見聞きした言葉を運用することによって言語を変化させています(もう少し丁寧に言うならこういうことです。「私たちは普段見聞きした言葉を反復することで言語を固定させている。しかし、反復することで言語を変化させている」*4)。言葉の接ぎ木を繰り替えすことで、意味の解体構築を実践しているのです。これは私たちの持つ模倣活動の歓待すべき非意志的な賜物といえます。程度の差こそあれ、私たちのテクストはイペルテクスト性を持っているのです。

 ここまでは良いでしょう。問うべきことはここから更に飛躍します。

 模倣されるイポテクスト(イペルテクストに対して先行するテクスト)はどこにあるのでしょう。言語が単なる複製でない限り、イポテクストは不可視な存在に遠のいていくことを意味します。*5テクストが互いに引用、模倣、接ぎ木されることで、純粋なテクストである「第一次のテクスト」は跡形もなく霧散してしまうのでしょうか。

 これに対する私見はこうです。「かつて存在したもの(失われた存在)を幻視すること」が、イポテクストへ通じる隘路ではないか、と。

 限られた人間であっても、あるテクストが「これは『オデュッセイア』の焼き直しである」とか「『オイディプス神話』の現代的バージョンである」と指摘できるのは、そこにイポテクストの影、すなわち幽霊を感知する力を備えているからでしょう。彼らはテクストの幻視者なのです。

 

 よく見れば幽霊見たり枯尾花*6

 

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*1:『砂漠の思想』枯尾花の時代 安部公房(1965)

*2:

言う、「あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」と、これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である イザヤ記 章65:5

*3:

a伝道の書 一:九「先にあったことは、また後にもある……日の下には新しいものはない」ジャン・ド・ラ・ブリュイエール著『カラクテール』(一六八八年)参照。「どんなことでも、われわれに先んじてだれかが言っている」ラ・ブリュイエールはおそらくこれをロバート・バートン著『憂鬱の解剖』(一六二一年)の、つぎの一節からとったのだろう。「われわれはすでにだれかが言ったことしか言うことができない」バートンはこれをテレンティウス著『宦官』(前一六一年)の、「あらゆることはすでにだれかが言っている」からとったと思われる。わたしはこの四つの句を比べるというアイディアを、『バートレットの引用句辞典』の脚注から盗用した。
(『本の愉しみ、書棚の悩み』日の下に新しいものはない アンディ・ファイマン)

*4:わたしはこのアイディアを、『声と現象』(ジャック・デリダ)の一解釈として盗用した。

*5:残念ながらこの議論の旗手を私は知りません。テクストの構造的歴史を探るとはどういうことでしょう?

*6:よく見れば薺花咲く垣根かな 松尾芭蕉

影と写真と幽霊の交差

 

recrits.hatenablog.com

 

写真の映像 (芸術論叢書)

写真の映像 (芸術論叢書)

 

 

 もしもタルボットが、すでに1827年に、すなわち彼が写真術にまつわる実験の数々をおこなうまえにベルリンのアーデル・フォン・シャミッソーを訪問したのではなかったとしたら、この出会いは文学における影泥棒との記念すべき隠喩学的遭遇と呼ぶことができたかもしれない。ともあれ、のちに『自然の鉛筆』に関する同時代の書評のなかで、タルボットの写真芸術はシャミッソーの「ペーター・シュレミール」に比較されることになる。(『写真の映像』影絵 ベルント・シュティーグラー)

 影にまつわる物語は数え切れない程存在します。それほど「影」は私達に対して襲いかかる強度を持っているのです。この影の持つ二つ写しの性質は、写真、鏡、双子を連想させ、同一のモチーフとして語ることができるでしょう。

 村上春樹はシャミッソーの物語と共に「影」に対する特別な思い入れを語りました。

アンデルセンが生きた19世紀、そして僕たちの自身の21世紀、必要なときに、僕たちは自身の影と対峙し、対決し、ときには協力すらしなければならない。


それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。もちろん、たやすいことではありません。ときには危険もある。しかし、避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することはできない。最悪の場合、小説「影」の学者のように自身の影に破壊されて終わるでしょう。


自らの影に対峙しなくてはならないのは、個々人だけではありません。社会や国にも必要な行為です。ちょうど、すべての人に影があるように、どんな社会や国にも影があります。


明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ポジティブなことがあれば、反対側にネガティブなことが必ずあるでしょう。
ときには、影、こうしたネガティブな部分から目をそむけがちです。あるいは、こうした面を無理やり取り除こうとしがちです。というのも、人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。


影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません。


侵入者たちを締め出そうとどんなに高い壁を作ろうとも、よそ者たちをどんなに厳しく排除しようとも、自らに合うように歴史をどんなに書き換えようとも、僕たち自身を傷つけ、苦しませるだけです。


自らの影とともに生きることを辛抱強く学ばねばなりません。そして内に宿る暗闇を注意深く観察しなければなりません。ときには、暗いトンネルで、自らの暗い面と対決しなければならない。


そうしなければ、やがて、影はとても強大になり、ある夜、戻ってきて、あなたの家の扉をノックするでしょう。「帰ってきたよ」とささやくでしょう。(「影と生きる」村上春樹

 光の面ばかりを見ているといつしか影にしっぺ返しを食らう。全てを明るみにだす態度は物事の裏面を不可視にしてしまうのです。

 実は安部公房も、エッセイ『砂漠の思想』で不思議と似たことを語っています。

  名づけるという行為は、すなわち、幽霊どもを次々と枯尾花におきかえていく作業以外のなにものでもなかったのである。いや、この概念化の能力は、単にそうした言葉のうえの強がりにとどまるものではなく、その力なくしては、鋳鉄の方法も、火薬の製法も、反復のきく知識として保存されたりはしなかっただろうし、また、鉄砲の仕掛けだって、当然のことながら、けっして製図されたりはしなかった相違ないのだ。これは、ただ目に見えない内部の力であったばかりでなく、まさに具体的な、そして物質的な力でもあったわけだ。

(・・・)

 そう、名づけるほうの仕事は、批評や、科学にでも委せておけばいい。すくなくとも、ここでは、名づけたいという自然の行動にさからってでも、無名の幽鬼たちを、そのありのままの姿で、受け入れてやらなければならないのだ。
 こうした、名づけることを拒む精神の姿勢を、かりにも認めずにすまされる者がいるとしたら、それは芸術作品なしに、だた批評だけが存在する世界を、なんのためらいもなく思い浮かべることの出来る、まれな空想家だと言ってもいいだろう。そんな世界が、幽鬼の存在以上に、理屈に合わないものであることを、いささかも疑ってみることなしに……(『砂漠の思想』枯尾花の時代 安部公房) 

砂漠の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

砂漠の思想 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

 

 「幽霊の正体見たり枯尾花」とは、幽霊だと思っていたものをよく見ると枯れたススキだったという、実体が実はつまらないものだったことのたとえ話です。村上春樹は影のない世界、安部公房は幽霊がいない世界になることを憂いているのです。彼らは同じ言語観の中で生きています。

もしも写真の歴史が二つの根本的な表象によって規定されており、それら自体、写真として現象するものの世界を決定づける亡霊にほかならないとしたらどうだろうか?そのような見方をしているのはアラン・セクラである。「おしゃべり好きな二つの亡霊が写真の中をうろついている。ブルジョワ科学の亡霊とブルジョワ芸術の亡霊である。一方の亡霊はさまざまな現象の真実性について、すなわち諸々の事実の実証的な集合体へと――つまり、認識可能かつ所有可能な客体の布置へと――還元された世界について、絶え間なく語りつづけている。第二の亡霊は、科学がへつらうような――そして、まったくもって幽霊のように不気味な――手によって犯してきた残虐行為の数々を謝罪し、これを贖うという歴史的な使命を帯びている。この第二の亡霊が、芸術家という光輝に満ちた姿に最構成された主体を、われわれに差し出してくれるのである」(Sekula,256)

(『写真の映像』幻影 ベルント・シュティーグラー)

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Geisterfotografie*1

 

 では、また別の言語観があるとしたら?「影」にまつわる話を渉猟していると、プラトンの洞窟が見えてきます。

ポール・ヴァレリーは、1939年に写真誕生100周年記念祭においておこなった演説のなかで、このように思いをめぐらせている。「もしもプラトンが、その洞窟の開口部をごく小さな穴に縮小し、スクリーンの役割を果たすその壁面に薄く感光剤を塗ったとしたら、洞窟の突き当りの壁を現像することによって、一枚の巨大なフィルムが得られたことでしょう。もしそうしていたら、われわれの認識の本性について、またわれわれの理念の本質について、彼がどれほど驚くべき結論をわれわれに遺してくれたことか、計り知れません……」(Valéry,8〔338頁〕) 

(・・・)

「いまだにより高次の認識にたどりつくことがないまま、人類はあい変わらずプラトンの洞窟のなかにとどまり、――古代の慣習にしたがって――真理のたんなる写像にうち興じているのである」(Sontag,9〔9頁〕)。ソンタグの論考の題名が主張するところによれば、われわれはあい変わらず「プラトンの洞窟のなか」におり、写像をじっと見つめつづけているのだ。そして、写像のもととなった原像は、いずれにせよすでに失われてしまったのである。その限り、デジタル写真をめぐる論争――そこではとりわけシミュラークルの定理が重要な役割を果たしているのだが――においても、プラトンの洞窟が解釈モデルでありつづけていても驚くにはたらない。つまり、写真とは「ある意味で、プラトンのいう洞窟の比喩を19世紀に転用したものである。この洞窟はひとつの表象機構をなしており、世界の影像〔=影絵〕はこの機構を通って伝送されるのだが、彼らは現実の世界に直接つながる通路を有してはいないのである。この古典的類比はデジタル映像によって強烈なまでにアクチュアルな意味合いを帯びる。というのも、デジタル映像は、もはや洞窟外部の世界で起きる出来事のたんなる影ではないからである。むしろデジタル映像は、心象と思考の円滑な協働や思いもかけぬ連想ともども、思考の流れそのものを反復しているようにも思われる」(Hamdy,7)

(『写真の映像』プラトンの洞窟 ベルント・シュティーグラー)

 ソンタグはラディカルな主張をします。私たちは古代から現代(写真時代)に至るまで、未だ幻影を見続けていると。私達は洞窟を見つけたのか?それとも、初めから洞窟の中にいるのか?

 影と写真と幽霊は私たちに何を見せるのでしょう。そこでは何が交差し、何が揺らぎ、どのような言葉が生みだされるのでしょう。

 

*1:Uni Zürich / KHIST • i-mage: inszenierte Fotografie vor/nach Cindy Sherman • 13.11.2006

いくつかの影人

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ピーターパン

 “You really look like a shadow,” people said to him(Hans Christian Andersen: The Shadow

 

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かげがり/ドラエモン

 7月24日に発売された藤子・F・不二雄大全集ドラえもん』第1巻に「かげがり」(「小学四年生」1971年7月号)という話が収録されています。

 ドラえもんが、影を切り取ることのできるハサミを出して、のび太の影をのび太の体から切り離します。切り離されたのび太の影は、のび太の言いつけ通りに働くのですが、時間がたってくると影のほうが知恵をつけてきて、そのまま放置しておくと影がのび太を乗っ取って両者の立場が入れ替わってしまうため、それを何とか防がねば……という話です。

 この「かげがり」を読むと、ドイツ・ロマン派の詩人シャミッソー(Adelbert von Chamisso)が書いた『影をなくした男』(1814年発表)という物語を思い出します。私はこの『影をなくした男』の存在を、藤子先生のアシスタントだったT氏から聞いて知ったのですが、そのT氏は「藤子F先生は『影をなくした男』を読んでいたのでは」と推測されていました。

d.hatena.ne.jp

 

 考えてみれば、ぼくは影をなくしたのです。影がない以上、影の原因である肉体が消えるのも当然でしょう。原因と結果が反対のようにも思えましたが、そんなせんさくをするゆとりはありませんでした。咥え去られたのが、役にも立たぬ影だけなどと、なんて甘い安心をしたものか。(『壁』第二部 バベルの塔の狸 安部公房 p152)

壁 (新潮文庫)

 

 そう、我々は影をひきずって歩いていた。この街にやってきたとき、僕は門番に自分の影を預けなければならなかった。

 「それを身につけたまま街に入ることはできんよ」と門番は言った。「影を捨てるか、中に入るのをあきらめるか、どちらかだ」

 僕は影を捨てた。(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』世界の終り(影) 村上春樹 pp125-126)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 

「もっと早くお休みにならなくては。このところほとんど横になっていないでしょう。お体がまるで影のようだわ」
「それは自分で考えたことかい?それともシャミッソー氏の入れ知恵かい?」
「シャミッソーのお話では登場人物は影を無くすだけよ。でもあなたはもっと大きなものを……」(『ホフマニアーナ』アンドレイ・タルコフスキー p.27)

ホフマニアーナ

五つのタイプの超テクスト性

 ジェラール・ジュネット(Gérard Genette)は『物語のディスクール』をはじめとした、超テクスト性三部作*1*2を著した文学理論家です。間テクスト性という言葉と共に、文学の「読み」に大きな影響を与えました。

 二十世紀半ば、文学における中心的な研究は作品分析からテクスト分析へと移行しました。その過程で生みだされたのが「間テクスト性(transtextualité)」という言葉です。これは文学理論の範疇に収まらず、構造主義のキータームにもなりました。

 しかし、どうでしょう。時の経過によって「間テクスト性」の意味が然るべく定着するどころか、未だ混乱の最中にあるようです。ニュアンスの異なる訳語があちこちで見られるでしょう。例えば超テクスト性、テクスト相互関連性、ハイパーテクスト性等々。辞書的な意味を知ることすら難しい状況です(但しこれは日本語に限った話ではないようです)。

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 ジュネット浩瀚な書物『パランプセスト : 第二次の文学』の冒頭でこれらを明確に整理しています。私自身の備忘録も兼ねて一部引いておきしょう。

超テクスト性 transtextualité

 超テクスト性とは詩学の対象であり、「テクストのテクスト的超越性」といえる。
 大雑把に「テクストを他のもろもろのテクストに、明示的にか暗黙理にかはともかく、関係づけているあらゆるもの」といえる。
 この概念はいくつかの超テクスト的関係を含みこんでおり、ジュネットは具体的に次の五つのタイプに分類している*3。 

相互テクスト性 intertextualité

 第一のテクスト的超越性。
 ジュリア・クリスティヴァが探求した間テクスト性*4と同一の用語であり、範例として扱っている。但しジュネット独自の制限を加え、「あるテクスト内での他のテクストの実際上の存在」という、より具体的な言葉として再定義している。
 最も明白な形式としては、あるテクスト内に実際にテクストとして存在するもの。いわば引用 citation のことである*5同様に明白な形式ではあるが、規範的でないもの。いわば剽窃 plagiat という表れ方もする。
 そのほか明白でない形式として暗示 allusion がある。これは「ある言表と、その言表のしかじかの抑揚が必然的に回付し、それによってはじめて受け入れうる他の言表との関連を感知することが前提とされない限り、完全には理解されない言表」のことである。

パラテクスト paratexte*6

 第二のテクスト的超越性。『スイユ:テクストから書物へ』の中心的な対象。
 テクストに付随する表題・副題・章題、序文・後書き・緒言・前書き等々を指す。そのほかにも傍注・脚注・後注、エピグラフ・挿絵・作者による書評依頼状・帯・カヴァー、およびその他数多くのタイプの付随的な、自作または他者の作による標識も含まれる。
 これらはテクストに対してある種の囲いを与え、また時には公式もしくは非公式の注釈を与える。

メタテクスト性 métatextualité

 第三のテクスト的超越性。
 あるテクストを、それが語っている他のテクストに、必ずしもそれを引用することなしに、それどころか極端な場合にはその名を挙げることすらなしに結ぶつける関係、より一般的には「注釈」の関係のこと。

イペルテクスト性 hypertextualité

 第四のテクスト的超越性。『パランプセスト : 第二次の文学』の中心的な対象。
 あるテクストB(イペルテクスト hypertexte)を注釈の方法ではない仕方でそれが接ぎ木されるところの先行されるテクストA(イポテクスト hypotexte)に結び付けるあらゆる関係。
 より一般的には、あらかじめ存在する他のテクストから派生したテクストといえる。

アルシテクスト性 architextualité

 第五のテクスト的超越性。『アルシテクスト序説』での中心的な対象。
 もっとも暗示的、かつ抽象的。完全に沈黙の関係。「文学の文学性」ということができる。
 言い換えれば言説のタイプ、言表行為の様式、文学ジャンル等のことである。
 
 以上がジュネットの示した超テクスト性の五つの分類である。
パランプセスト―第二次の文学 (叢書 記号学的実践)

パランプセスト―第二次の文学 (叢書 記号学的実践)

 

 

 なお、ジュネットの残した成果全体を捉えるのであれば、彼が指し示す「テクスト」はコンセプチュアルなものとして理解する必要があります。

 のちに刊行される『芸術の作品』*7では、詩学者の立場から「芸術作品の超越性」について論じられます。ジュネットはテクスト分析の延長線に美学があることを発見したのです。「テクストの実践」によって文化を分析する仕方は、彼が文学理論家でありながら同時に記号学者であることを正統に示しているでしょう。

芸術の作品〈1〉内在性と超越性 (叢書記号学的実践 28)

芸術の作品〈1〉内在性と超越性 (叢書記号学的実践 28)

 

*1:Introduction à l'architexte(1979)(『アルシテクスト序説 』(1986))Palimpsests: Literature in the Second Degree(1982)(『パランプセスト : 第二次の文学』(1995))Paratexts. Thresholds of Interpretation(1997);Seuils(1987)(『スイユ : テクストから書物へ 』(2001))

*2:三部作を要約した文章として次を引用します。

 ジュネットは特定の作品や作者を目的とはしていない(もちろんプルーストやジェイムズやボルヘスヴァレリーについては人並みに語るけれども)。彼が目指すのは文学形式の一般理論,つまり詩学と呼ばれるものなのである。著作を重ねるごとにジュネットが論じてきたのは,彼のいわゆる超テクスト性transtextualité,すなわち「あるテクストを他のテクストに明示的もしくは暗黙裡に関係づけるすべてのもの」として定義されるテクストのテクスト的超越性にほかならない。これらの関係についてジュネットは,そのうち三つのタイプを詳細に研究してきた。すなわちアルシテクスト性,イペルテクスト性,そしてパラテクスト性である。これではアリストテレースでも迷ってしまうだろうか?簡単な例を挙げてみれば,古代の師父もそこに自身の弟子たちをあらためて見出すことだろう。中学生なら誰でも知っている書物,ミシェル・トゥルニエの『フライデーあるいは野生の生活』を例にしてみよう。これは小説であり,三人称で書かれている。そしてこの小説が「小説」というジャンルと取り結ぶ帰属の関係は,アルシテクスト性に(『アルシテクスト序説』が論じている)属している。他方,トゥルニエの小説は,デフォーの小説の変形として明白に提示されている。すなわち『フライデー』はロビンソン・クルーソーのイペルテクストなのである(五百ページからなる『パランプセスト』が検討に付すのはこれらのさまざまな派生形式なのだ)。最後に,あらゆる書物がそうであるように,『フライデー』もまたタイトルや紹介寸評等々に囲繞された姿で提示されている。この周辺部こそが『スイユ』で研究されたパラテクストをなしているのである。

 

和泉涼一「ジュネット自身の語る『芸術の作品』―イヴァン・ルクレールとの対談―」「対談 ジェラール・ジュネット――詩学と美学」(イヴァン・ルクレールの解説より)

*3:ジュネットは慎重を期し、これらは執筆時点(1981年10月13日)に見られる超テクスト性であって、網羅的でも決定的でもないという。

*4:Séméiôtiké, Edition du Seuil, 1969

*5:Antoine Compagnon,La seconde main,1979 ジュネットは先例の無い研究として本書を挙げる。『第二の手、または引用の作業』(水声社)として2010年に邦訳されている。

*6:または「準テクスト」

*7:L'Œuvre de l'art 1 : Immanence et transcendance(1994)