かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

中世における書き手の四分類/電子テクスト時代における新たな著述のスタイル

 電子テクスト時代における、著述のスタイルについて考えることがあります。

 誰もが作者として振る舞うことによって、ごく無意味なもの、無能なもの、最悪のものがWebの空間を塞ぎ、麻痺させ、妨害してしまうのではないか。たとえそうだったとしても、最良のものをすくいあげる方法は無いのか。

 〔ドキュバースにおける〕新たな著述のスタイルを次のように分類します。explicit author (文献を編集・整理し、引用する者)implicit author(書物を収集・整理し、関係を与える者)。前者のテキストには大量の引用窓があり、それを覗いて、更に深く潜ることができます。後者のテキストには大量の付箋や余白への書き込みがあり、幾重にも重なった厚みの上に、更に厚く書き加えることができます。新たな書物の表面は、指先の感覚では捉えられないほど微細な凸凹で埋め尽くされています。

「作者の復活」かかれもの(改訂版)

 この著述に対するスタイルについて、時代を異にしてパラレルな議論があります。

中世の作者論では、著述に携わる人間には著者(auctor)と編纂者(compilator)の二種類があるとされた。ボナヴェントゥーラの定義によると、著者は、他人の見解で自説を補強しながらオリジナルな著述をする者で、編纂者とは、自分の見解を付け加えることなく、他人の書いたものを集めてひとつに編纂する者である。

『ヴィジュアル・リーディング 西欧中世におけるテクストとパラテクスト』松田隆美

 中世キリスト教における書物と人間の関係は砂時計のようです。博士や教父が、聖書の中の一節に対して注釈の種子を撒いて拡大させ、名もなき編纂者が、権威ある書物や書簡の中から価値があると判断した一節を選び、美しい花々として摘み取ります。このエコノミーによって、テクスト空間はよりいっそう凝集されていきます。神学や教父学(スコラ哲学)はこの体制によって絶頂を迎え、聖書は超越的なディスクールとなりました。

 聖書の言葉は「ロゴス」です。ロゴスは引用されても即座に源泉としてのロゴスに結びつけられ、ロゴスとしての価値を獲得します。聖書からの引用は「聖書において書かれているように……」と、それ自身がロゴスとしての権威を持つことになります。このように部分を取り出した全体の要約は際限なく拡大し、物神化へ至ります

「『第二の手、または引用の作業』引用の系譜学」かかれもの(改訂版)

《ロゴス》は聖書の唯一のレフェランスであり、聖書は《ロゴス》が姿を変えたものである。聖書を構成するすべての要素は、個々別々に取り上げても、聖書の全体と同じレファランスを持っている。聖書のひとつひとつの言葉は聖書の全体を意味し、《ロゴス》を表示している。というのも、あるひとつのロゴス logos は、《ロゴス Logos》を分有している点で、それを掲示するひとつの記号に他ならないからである。オリゲネスはこう書いている「神の《ロゴス》は、初めに神とともにあったものであり、それは多弁ではないし、あまたのロゴスでもない。それは、多くの文から成る《み言葉》であるが、そのひとつひとつの文は、同じ全体の一部分、同じ《ロゴス》の一部分なのである」。つまり、聖書の全ての文はお互いに等価である。なぜなら、それらはすべて《ロゴス》を含んでいるからである。聖書は数々の独立した小さなロゴスの連続であるが、これらは、全体から離れても、その性質を失うことはない。それらは〈聖書の声ウォケス・バギヌム〉であり、〈神の印ウェスティギア・ディー〉である。切り離されたひとつひとつの小さな切れ端であっても、そこには聖書の全体が潜在的に含まれているというのである。オリゲネスは言う。「聖書のひとつひとつの言葉は、種子に似ている。種子は、ひとたび大地に投げられ、穂が出れば、どんどん増え、広まっていく。[……]穂は最初のうちは、痩せて小さく見えるかもしれない。しかし、その穂を大切に育て、霊的に扱う、熟練した熱心な庭師に出会うならば、それは、やがて、樹木のように大きく成長し、大枝小枝を茂らせるだろう」。

アントワーヌ・コンパニョン『第二の手、または引用の作業』pp.264-265

 さて、ボナヴェントゥラの作者論における書き手は正確には四分類されています。テキストの「引用の程度」による、筆耕者、編纂者、注釈者、作者の四区分です。編纂の歴史を扱った『情報爆発』のなかでアン・ブレアはこの分類法を援用しています。

一二五〇年頃、ボナヴェントゥラは、パリ大学神学者であったとき、自分自身の言葉と他の人々から借りてきた言葉の割合に応じて、編纂者と作者を区別した。「書物を作るには四とおりの方法がある。ある者が他の[言葉]を、足すことも変えることもなく書き写すこと。そのような者は筆耕(scriptor)と呼ばれるにすぎない。ある者が他の者の言葉を、己れのものではない言葉を足しながら書くこと。そのような者は編纂者と呼ばれる。ある者が己れの言葉と他の者の言葉をともに書くが、他の者の言葉主とし己れの言葉は証拠としてそれに付随させるなら、そのような者は注解者と呼ばれるが、作者ではない。ある者が己れの言葉と他の者の言葉をともに書くが、己れの言葉を主とするなら、そのような者こそ作者と呼ばれねばならない」。
『情報爆発』アン・ブレア

 ボナヴェントゥラは、明らかに作者優位に論じていますが、現代においてこれをナイーブに受け取ることはできません。Webの空間は、全体を統制する超越的なディスクールが存在せず、あらゆるテクストが無制御に水平に拡がっています。そのため、ボナヴェントゥラが示すような垂直の関係から外れた書き手が溢れ、強い影響力を持っています。歪んだ筆耕者(精確に書き写すのではなく、意図的に欠落させたり、増幅させることで、別の解釈を与える筆耕を行う者)、自惚れた作者(権威あるテクストを過小に評価し、一切の引用無しに、自説だけを述べる者)を見かけることは少なくありません。しかし、垂直の繋がりから外れるということは、虚ろで、消えやすく、脆い存在であることを是とすることと同義です。

 近親相姦的な料理本の世界では、盗作という概念は存在しないらしい。新たにローズマリーの小枝でもそろえれば、そのレシピは自分のものになる。だが文学の世界のルールはもっときびしいーーことになっている。引用符を使うのがきらいだったり、日記に記した流麗な文章が実はフローベールの書いたものであることを「忘れ」たり、ローズマリーの小枝をそろえる程度にことばを変えることで、所有権が自分に移ったと思いこんだりするものは、よく知られているベンジャミン・ディズレーリのひとりよがりな(holier-than-thou)せりふのように、「人の知性の盗人」である。

『本の愉しみ、書棚の悩み』日の下に新しいものはない アン・ファディマン

 アン・ファディマンの言葉を警句として受け取ることは簡単ですが、翻って現代の私達が考えるべきは、(超越的ディスクールなき世界において)人間が怠惰であることを織り込んだエコノミーを構築することは可能か、という問いです*1

 作者だけが称揚され、その他の書き手(筆耕者、編纂者、注釈者)の仕事が評価されない背景には、著作権の問題や、コンピュータ技術を始めとする情報処理能力の向上が関係しているはずです。また、作者こそ至高というドクサが手伝うことで、歪んだ筆耕者や自惚れた作者を次々と生みだしているのでしょう。

 「客観的」な指標*2で美しい花々を摘むことは出来るのでしょうか。本当は私達が私達自身のために花々を選び取る仕事をするべきではないのか。創造的なテクストは、編纂と注解の極地にある間テクスト的想起、霊感から生まれるものです。

情報爆発-初期近代ヨーロッパの情報管理術 (単行本)
 
本の愉しみ、書棚の悩み

本の愉しみ、書棚の悩み

 

*1:注記すべきは、複製が容易であることと、テクストが残り続けることは別の問題ということです。メディア変換それ自体は容易ですが、その仕事を実現するためには誰かの意志が伴う必要があります

*2:たとえばGooglePageRankのように