かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

『第二の手、または引用の作業』引用の系譜学

 シークェンスⅢ、シークェンスⅣ、シークェンスⅤより。

 コンパニョンは引用の記号的関係性(シークェンスⅡ)から導かれる四つの構造的な関係について、系譜学的に説明します。

引用の機能と形式

 引用を分析するために、対象を「機能」と「形式」に分割します。

 私たちは何よりもまず引用の意味や印象といった「機能」に着目し、それを網羅的に挙げようと考えますが、これでは泥沼にはまってしまいます。なぜなら、引用の機能は限定されず、たえず変化しているからです。これに対して「形式」については、引用の基本図式にあてはめることで単純なパターンに帰着させることができます。

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文面の〈関係〉

 コンパニョンの示した基本図式から、T1-T2、T1-A2、A1-T2、A1-A2の四つ関係を導くことができます。シークェンスⅢからⅤでは、この四つの関係について、そのディスクールが広がった背景と共に、その時代における引用の機能と形式が整理されます。

 さて、それでは引用の機能とは何でしょうか。これは「引用の反復価値が一体何であるか」という問いに言い換えられます。コンパニョンは、引用の反復価値は時代背景に大きく左右されると考えました。つまり、引用によって生み出される価値は、「すべて競合的に存在する諸々の反復価値のうちの、ひとつの特殊なヒエラルキーに相当するのである。機能とは、時代が備給するひとつの価値であり、ひとつの強度、あるいは、固有の諸価値のなかで歴史的に定着した特殊なひとつの組み合わせ(p135)」であると*1

系譜学の区画

 著者対テクストの諸形式をパースの記号論に基づいて整理したのが下表です*2

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テクストと著者の関係

 三つの形式(シンボル、インデックス、アイコン)が重要な役割を担っていた時代と、それに対して認められていた機能(価値)は次のような表で整理することことができます。

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引用の形式と機能の系譜

 ここから、時代と共に変化する引用の価値について、詳細な分析が展開します。

引用の系譜

引用の前史 古代の修辞学

この愛想のいい土着民が教えてくれた言葉を私が反復しようとしたとき、その土着民は叫んだ。「おやめなさい。ひとつの言葉が使えるのは一度だけです」。

 

ポッツァロ『旅』

ひとりの修道士がアッバ・テオドールに会いにやってきた。そして、自分にひとこと言葉をかけてほしいと願って三日を過ごしたが、返事を得ることはできなかった。彼は悲しみに沈んで帰っていった。そして、老人の弟子が尋ねた。「アッバよ、あなたはなぜあの男に一言も言わなかったのですか。あの男、ずいぶん悲しげに去っていきましたが」。老人はこう答えた。「実際、私はあの男にしゃべらなかった。それは、あいつが商人であるから、つまり、他人の言葉で自らに栄光を授けようと欲しているからだ」と。

 

アッバ・テオドール・ド・フェメル(ジャン=クロード・ギイ『古代人の言葉』)

 まずはじめに古代において「引用」という言葉は存在しませんでした。引用が引用として成立する以前、当時の人たちはどのように他者の言葉を語ったのでしょう。

 ここではアリストテレスプラトンの思想を中心に引用の機能が検討されます。彼らは現代における引用に相当する表現を「ミメーシス(模倣)」と呼びました。

 アリストテレス詩学において最も品位の高い表現は悲劇であると記しました。これは悲劇が最も模倣性が高い形式であることに由来します(悲劇は直接話法で再演され、著者はその物語に介入しません)。一方プラトンは『国家』のなかで「ミメーシス、財産、家族は有害なものである」と記します(これらはいずれも所有の概念に関わるものです)。両者のミメーシスに対する態度は対称的で、正反対の評価を下しているように見えます。

 この対称の原因は明快に説明することできます。つまり、アリストテレスプラトンが共に認めているのは、「反復」が大きな力を持ち、その使用には注意深くあるべきだということです(ミメーシスを称揚するアリストテレスが自らの言葉によって著し、ミメーシスを否定するプラトンが他者の言葉や文献によって根拠立てるのは象徴的です)。

 ミメーシスをより良く扱うために、ミメーシスは二つの次元に分けられます。それは、良い引用と、悪いイメージです。悪いイメージとは一般に「シミュラークル」と呼ばれます。シミュラークルは、魔術的な力で外示の無いディスクールを濫用する詭弁の別称です(意味と外示)。一方、良い引用とは、空虚な引用で権威づけることはせず、賢者の「思考の引用」をすることです。弁論家は引用によって良い思考、良い発想が授けられるのです。
 アリストテレスは引用(良い引用)に相当する修辞学的実践を「グノーメー」と定義しました。これは、それ自体が理(ラシオ)を持っている決まり文句、自明な理(格言や金言)です。グノーメーに著者は介在しません。グノーメーは引用者のディスクールについての純粋な補強となる、理想的なシンボルです。グノーメーは主体に従属するものであり、グノーメー自体が主題になることはありませんでした。

 生きたディスクールを操る素晴らしい弁論家に対して、空虚な引用を繰り返す価値の低い存在は「代筆修辞家ロゴグラフ」(法廷弁論家が朗読する演説を舞台裏で書く人物)と呼ばれました。プラトンは一般にエクリチュールを否定したとされますが、それにも関わらず著作を多く残したということは、エクリチュールの持つ強力な機能を自覚していたことの裏返しとも言えます。

 さて、次の時代との結節点に、センテンティアという言葉が表れます。クィンティリアヌスは「センテンティアとは、ギリシャ人たちがグノーメーと呼んだものである」と言いました。

絶頂 神学ディスクール

われわれは一冊の書物を読み終え、それを論評する。論評しながら、その書物自体が論評に他ならず、それが他の多くの書物を参照することで書物となっていることに気がつく。われわれは、論評を書き、それを著作という範疇にまで高める。発表され、公共のものとなったわれわれの論評は、今度は、別の論評を招き、そして、それは、また別の論評を招いていくだろう……。

 

モーリス・ブランショ『無限の対話』

フランソワーズは、公爵夫人の言葉をわれわれに伝えて、「あの方はこうおっしゃいました。『皆様によろしくお伝えくださいましな』」と、ヴィルパリジ夫人の声音を真似て言った。フランソワーズは、夫人の言葉をそのまま言葉通りに引用していると思っていたが、プラトンソクラテスの言葉を、あるいは、聖ヨハネがイエスの言葉を引用するのと同じ程度に、夫人の言葉を歪めていた。

 

マルセル・プルースト失われた時を求めて

 コンパニョンは過大な単純化であるとエクスキューズしながら、時代の変化をこう説明します。
第一幕、古代。引用は存在しない。
第二幕、中世。引用しか存在しない。
 時代の移行を単純化するのは容易ですが、現実はそう簡単ではありません。事態は常に複雑です。しかし、幸いにもこの時代の変化はある象徴によって説明することができます。それは「聖書」の超越性です。

 古代の「グノーメー」と、中世の「聖書の引用」はちょうど逆の機能を持っていると説明できます。グノーメーは状況的な命題に対する価値を持つ一方、聖書の引用は普遍的、永遠の真実としての価値を重んじます。それは神学のディスクールが引用そのものを教義としてきたことからも分かります。「旧約聖書における異教からの引用、新約聖書における旧約聖書からの引用、教父における聖書からの引用、神学における教父学からの引用、これらをめぐる教義は、聖トマス・アクィナスによってほぼ決定的な形を与えられている。」

 中世の神学ディスクールを一言で表すなら、それは聖書について「注釈すること」です。神学ディスクールの「注釈コマンテール」は次のようにいくつかの分類があります。

  • 〈スコリア la scolie〉テクストの難解な箇所について、欄外や行間に付される短い注
  • 〈ホミリア l'homélie〉一連の〈スコリア〉を全体的に取り上げ、一般信徒を教化するための、聖書の抜粋を解説する聖書講話や説教オラチオ
  • 〈ボリューム tome〉または〈コメンタリウム commentaire〉聖書という書物についての一貫とした連続的な読解。網羅性を備えることを目指すものであり、個人的な〈スコリア〉や一般教化のための〈ホミリア〉とは異なり、学識のある人々に向けられた学術的なもの

 「注釈コマンテール」を語通りに捉えるなら、それは「コメンタリウム」を指すものとなります。神学ディスクールが聖書読解の営みであるということから、それらを包括的に表現した「注釈することコマンテ」こそが通底したディスクールとも言えるでしょうでしょう。

 オリゲネスはキリスト教における二つのディスクール、つまり旧約聖書新約聖書の狭間で生じる問題に着目しました。二つのディスクールは矛盾する内容を含んでいますが、キリスト教の神学ディスクールはどちから一方を排除することを目的にせず、二つの要素を相互補完的に注釈することによって、矛盾を解消することを目指しました(これはユダヤグノーシス的な読解、つまり明示的な意味の背後に何らかの潜在的な意味を発見する「釈義」ではありません)。キリスト教神学ディスクールという神学装置は広義な「テクスト理論」の営みと捉えることができるでしょう。

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神学ディスクールの三項関係

 聖書の言葉は「ロゴス」です*3。ロゴスは引用されても即座に源泉としてのロゴスに結びつけられ、ロゴスとしての価値を獲得します。聖書からの引用は「聖書において書かれているように……」と、それ自身がロゴスとしての権威を持つことになります。このように部分を取り出した全体の要約は際限なく拡大し、物神化へ至ります(聖書の引用というディスクールにおいて聖書からの引用はシンボル、インデックス、アイコンいずれの形式に当てはめられません)。

《ロゴス》は聖書の唯一のレフェランスであり、聖書は《ロゴス》が姿を変えたものである。聖書を構成するすべての要素は、個々別々に取り上げても、聖書の全体と同じレファランスを持っている。聖書のひとつひとつの言葉は聖書の全体を意味し、《ロゴス》を表示している。というのも、あるひとつのロゴス logos は、《ロゴス Logos》を分有している点で、それを掲示するひとつの記号に他ならないからである。オリゲネスはこう書いている「神の《ロゴス》は、初めに神とともにあったものであり、それは多弁ではないし、あまたのロゴスでもない。それは、多くの文から成る《み言葉》であるが、そのひとつひとつの文は、同じ全体の一部分、同じ《ロゴス》の一部分なのである」。つまり、聖書の全ての文はお互いに等価である。なぜなら、それらはすべて《ロゴス》を含んでいるからである。聖書は数々の独立した小さなロゴスの連続であるが、これらは、全体から離れても、その性質を失うことはない。それらは〈聖書の声ウォケス・バギヌム〉であり、〈神の印ウェスティギア・ディー〉である。切り離されたひとつひとつの小さな切れ端であっても、そこには聖書の全体が潜在的に含まれているというのである。オリゲネスは言う。「聖書のひとつひとつの言葉は、種子に似ている。種子は、ひとたび大地に投げられ、穂が出れば、どんどん増え、広まっていく。[……]穂は最初のうちは、痩せて小さく見えるかもしれない。しかし、その穂を大切に育て、霊的に扱う、熟練した熱心な庭師に出会うならば、それは、やがて、樹木のように大きく成長し、大枝小枝を茂らせるだろう」。(pp.264-265)

 神学ディスクール旧約聖書新約聖書に関する読解であり、小さなロゴスの集合体です。ロゴスは神学ディスクールにおける重要な形式の一つです。

 この時代を特徴づける一つの引用の価値、それはアウクトリタス(権威)です。聖書読解の解釈項として加えられる注釈(小さなロゴス)は権威ある博士の手によって構成されています。

 権威ある者による注釈という営みは教父学の範疇です。教父学における神学ディスクールは一見すると聖書に由来する言葉と博士の注釈というテクスト対テクストの関係に見えますが、実際はその限りではありません。アウクトリタスとは、ある著者を必然的に参照して引用したものであり、そうでない注釈には価値は認めないということです。つまり、その関係は引用するディスクールT2と引用される博士A1の関係であり、主張する者と神聖化される者の間の関係であり、一種の儀式的な関係と言えます。ここから、注釈することが伝統と深く関わることになります。新たに加えられる注釈が伝統的で権威ある者によるかどうかによって、それらの価値が認められるかどうか決まります。エクリチュールの判断はその内容の真正よりも、権威(アウクトリタス、オーサー)に基づきます。これは旧修辞学で認められたグノーメーのような自明の理ではなく、ある人間、ある著者(auctor,actor,autor)という現実の保証人によって文面が力を持つかどうか認められるということです。神学ディスクールに特徴づけられているテクストとアウクトリタスの関係は、極めてインデックス的な関係です。

 神学ディスクールは一見、無限の源泉から永遠を感じさせる営みに見えますが、次第に絶頂への陰りが見え隠れし始めます。神学ディスクールの持つ欠点、それは「既に言われたことしか言うことができない、信仰が前提とされているディスクールである」ということです。キリスト教の神学ディスクールシミュラークルに陥った、クロノロジーを捨てた、アナクロの読みによって、その起源から自らを限界付けていたとも言えます。

 さて、次のメルクマークは「活版印刷」です。中世における本は、書字生による写本のことを指していましたが、活字の登場によって、私たちが知る近代的な書物のスタイルが確立します。ここから次第に私たちに身近な本の問題へと接近しはじめます。

テクストの固定化 近代的な引用の成立

これまでもそうであったし、そして、今もそうであるように、多くの学者たちのあいだで引用を流行させてきたのは、偽の博識と多識の精神でしかなかったということ、このことは明らかであるように思われる。というのも、引用しなければならない理由がまったくないのに、大量の文章を絶えず引用する人々を見つけるのはまったく苦もないことで、彼らが引用するのは、自分の述べていることがあまりにも明白なので誰もそれを疑わない場合であったり、あるいはまた、自分の述べていることがあまりにも謎めいていて自分でもよくわからないのだから、いわんや引用する著者たちの権威も何らその証明になどならない場合であったり、あるいはまた、持ち出す引用が自分の述べていることにいかなる装飾の役目も果たさない場合であったりするからである。

[……]自分が読んですらいない著者たちを読んだように見せかけたいとする欲求ほど異常な矜持もないだろう。しかしながら、こうしたことは頻繁に起きている、自分の著作のなかに、数世紀かかっても読了しえないほど多くの書物を読者の前に引用する三十歳の人々がいるのである。

 

マルブランショ『真理の探求』

 中世と近代の変化を象徴する存在はモンテーニュです。モンテーニュは引用を巡る根本的な問いを、自虐を装いつつ『エセー』で語りました。『エセー』は主体的な著者とアウクトリタスの所在をいったりきたりします。

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エクリチュールの移行期

 『エセー』、この過剰な引用で構成された書物は様々な批判を生み出します。パスカル、アルノー、ニコル、マルブランシュはモンテーニュエクリチュールの悪しき例の典型としました。特に先鋭化したマルブランシュはこう批判します「自分の偽の知識を見せびらかすために、ありとあらゆる種類の著者をでたらめに引用し[……]、格言と歴史の巧みな言葉を判断も区別もせぬまま積み重ねる人物を[……]、人は衒学者と呼ぶ。衒学的というのは、理性的であることの対極である[……]。衒学者は精神の器が小さく、あるいはまた、偽の博識で一杯なので、理性的に推論することができない。そして彼らは、理性的に推論することではなく、知られていない著者や古代人の格言を引用するから人が彼らを尊敬し称賛するとわかっているので、理性的に推論しようと欲することもない。[……]衒学者とはしたがって、空虚で威張っており、多くの記憶と少ない判断を持ち、引用において巧みで力強く、理性において下手で弱く、その想像力は、活発で幅広いが、不安定で狂っており、正しさのうちに自制することができない」

 エクリチュールの移行期における中途半端な引用の時代と、印刷術・活字が広がったことは無関係ではありません。近代において書物は「エンブレム」と「ペリグラフィ」の機能を獲得したのです。

 エンブレム、「施された装飾」は中世における聖書読解における「アレゴリー」とは対立する考え方です。聖書における言葉とは原初的な存在であり、記号には予め規範的、解釈可能な意味が備えられていました。一方エンブレムは人工的な記号であり人間の手によって作られたものです。これは近代における主体の確立がエクリチュールのレベルで表出したとも言えます。エンブレムは「格言集」と呼ばれる定番の形式によって広く流通することになります。格言集の形式は、タイトル・絵・解説、そして全体を囲む装飾です。『エンブレマータ』『百描画集』『見事な創案展』『死のシミュラークルと物語化された諸相』そしてエラスムスの『格言集』。エンブレムに対する銘句、格言に対する引用、引用に対するテクスト。活字からテクストへと、エクリチュールは複雑に展開することになります。これらは象徴的にも、記号論的にも活字が物化していく様相と言えます。

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アンドレ・アルシアティ,『エンブレマータ』,パリ,クレチアン・ヴェシェル,1534,(B.N.F. Rés.Z. 2511),p.25*4

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ジル・コロゼ,『百描画集』,パリ,ドゥニ・ジャノ,1540,(B.N.F. Rés.Z. 2598),フォリオD1裏*5

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ハンス・ホルバイン,『死のシミュラークルと物語化された諸相』,リヨン,メルシオール&ガスパール・トレクセル,1538,(B.N.F. Rés.Z. 1990),フォリオE4裏*6

 ペリグラフィ(書物周辺)*7とは、書物を空間として表現したものです。活版印刷の別称「人工書記」は、ここで新たな表現を生み出します。あえて古代のテクストと比較するなら、それまでオーラリティを基にした「線的モデル」であった言葉は、エクリチュールとしての「空間的モデル」へと移行しました。今や当たり前となったタイトル、著者、印刷者、刊行日、奥付、その他装飾の数々が加えられることになります。書物は一つのオブジェとなりました。その中でも特に「タイトル」は、本文に対する強い隣接性によって書物の固有名詞となります。また、「目次」と「索引」は書物空間を探索するための地図となりました(ラムスはこれを徹底的に推し進め、書物の内容を樹形図、グラフ、フローチャートで示しました)。

 こうしたアイコン的な性質は「ダイアグラム」と「イメージ」に分割できます。ダイアグラムはT1-A2の関係で、書誌に象徴されるような、自身のテキストを補強するものであったり、自らの主張を読者に理解させるための構成、編集、文献の渉猟の結果を示すものです。イメージはA1-A2の関係で、これは共謀的、同族的関係であったり、その者たちの間での血統を示すための「挨拶の文句」(タイトル、エピグラフ)です。「イメージ」という言葉の通り、何らかのマークや写真によって示されることが多く、極めてナルシシックで想像的な関係と言えるでしょう。

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テクストと著者の四つの関係

 

 テクストがオブジェになったことによる二次的な効果として、テクストの流動性が大きく変化しました。これに伴い、空間を占有する書物の扱い方、書物を所有するとはどういうことか、書物の内容を血肉化することによって何が起こるかといった、書物に関する新たな問題が前景化します。これらは今なお混乱の中にある「著作権」の問題に地続きと言えるでしょう。

外れた引用

 古代におけるシンボル、中世におけるインデックス、近代におけるアイコン。コンパニョンが試みた著者と読者、そうしてテクストの関係はこれで一巡りしました。

 しかし、この区画が完全なものではないことは明白です。自己引用の「リフレーン」(これは修辞学の範疇を越えています)や、聖書の〈ロゴス〉(超越的な神の言葉)、これらについては、基本図式の範疇を超えた対象です。基本図式にあてはまらない対象は、シークェンスⅥ「引用の奇形学」の議論へと明け渡されます。

第二の手、または引用の作業 (言語の政治)

第二の手、または引用の作業 (言語の政治)

 

 

*1:当然現代における引用の機能は本書が執筆された頃とは大きく変化しています。WebにおけるハイパーリンクSNSのタイムラインに現れる反復される言葉は異なる価値を生み出しています。私たちが今までに、そしてこれから先も日常的に行うであろう「引用」という試み、その流動的な意味を捉えることは無意味ではないはずです「3 意味場の分析」

*2:訳書では「象徴記号」、「指標記号」、「類像記号」と書かれていますが、一般に受容されている「シンボル」、「インデックス」、「アイコン」に表記に変えています

*3:ヨハネ福音書は「初めに《言葉》(ロゴス)があった」から始まる

*4:André Alciat, Emblematum liblus, Paris, Chrétien Wechel, 1534,(B.N. Z. 2511). Figure gravée sur bois, p. 25.

*5:Gilles Corrozet, Hecatomgraphie, Paris, Denys Janot, 1540, (B.N. Rés. Z. 2598). Vignette gravée sur bois. Folio D1 verso : L'ymage de témétité.

*6:Hans Holbein, Les Simulachres et historiées Faces de la Mort, Lyon, Melchior et Gaspar Trechsel, 1538, (B.N. Rés. Z. 1990). Figure gravée sur bois. Folio E4 verso avec figure : Melior est mors quam vita.

*7:これについてはジェラール・ジュネット『スイユ』が最も良いレファレンスです

『第二の手、または引用の作業』意味と外示

 記号、語が引用されることによって生じる意味と外示の変化について、アントワーヌ・コンパニョンはこのように整理しました。

引用«t»と言い換えt'においては、報告される語tの〈何か〉が失われる。引用と言い換えにおいては、語tの外示が失われる。しかし、間接話法t'は、報告される語tの意味を保持し、展示し、外示する。直接話法«t»は、逆に、語tの意味を遮断したり、埋没させたりする。

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引用による語の意味と外示

 引用された語、つまりT2におけるtは、T1におけるtの本来の外示と意味を失っています。引用が表すのはtそのものであり、それは行為としての引用の意味という「意味の過剰」となります。

 さて、この議論は命題tにも置き換えられます。ある命題tは意味と外示を持ち、その外示は真か偽を表す真理価値を持ちます。しかし、引用された命題tにおける意味と外示はそのまま保持されるわけではありません。特に、その命題tの「外示」に関して、真理価値(真偽)は留保され*1、真正が問われることとなります。つまりその引用の許容可能性があるか、空無の引用でないか(レファランが存在するか)、といった外示にずらされるのです。

 この結果、引用者の主張はこのようなります。「これは『かかれたもの』だ」。この言葉は「それは書かれたものだ。ゆえに、それは真だ」という意味ではなく、「それはその通りに〔書き加えなどなく〕書かれたものだ」という意味です。

 一方、引用された命題tの「意味」の変化はこう主張されます。

その意味とは、〈tの意味〉(引用の思想内容)ではなく、〈行為としての意味の引用〉である。この〈行為としての引用の意味〉とは、究極的には、引用者の〈意志〉、ライプニッツを引用するフレーゲの意志、そして、フレーゲによって引用されているライプニッツを引用する私自身の意志に他ならない。

 以上を図式化するとこのようになります。

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引用による命題の意味と外示

  尚、本論はコンパニョンの主張というよりも、フレーゲの論文«Sens et Dénotation»(意味と外示)の一部を基にしたことが記されています。

recrits.hatenablog.com

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*1:

 念の為、引用そのものの価値を否定する論ではないことを注釈します。引用は引用そのものを〈判断〉することによって、本来の意味を再活性化することができるのです。

 語の引用の論理学的な帰結が、その語の意味に対して距離を置くことであり、その語の意味を反復の意味でもって受け継ぐことであるとしても、この帰結は、引用される語の意味が根源的に排除されるわけではないという点を強調することによって擁護されるだろう。引用される語の意味は、引用の後も生き延びる。すなわち、引用される語の意味は、引用の外示を媒介として、休眠の状態、または、待機の状態に置かれ、間接的な仕方で喚起されているのである。引用される語の意味は、引用から、二つの次元で遠ざけられてはいるものの、二つの次元のそれぞれを自らに結びつけている鎖は、断ち切られているわけではなく、引用の受容が«t»の意味とtの意味とを同時に実現できるように、一巡りすることができるのである。言い換えれば、意味の点から引用を弾劾することは、最終的な弾劾というわけではないのである。

 ここで書かれた「二つの次元で遠ざけられている」とは、本来の語tの意味と外示が、引用によってその両方が失われていることを指しています。

『第二の手、または引用の作業』引用の記号学

 シークェンスⅡ基本構造―引用の記号学より。

 コンパニョンは引用の記号学的水準について、パースの記号論を参照しながら仔細に検討します。本章にて「引用」の記号的関係性を明白にします。

引用の基本図式

 まずコンパニョンによる引用の基本図式を理解する必要があります。最も単純なケースは次のように表されます。二つの書物、あるいは二つのディスクールの間でテクストtが移動するとき(引用)、書物Tとその著者Aを内包するシステムS同士は〈関係〉を持ちます。

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文面の〈関係〉

 最も単純なケースにおいて、引用は、以下の諸要素を介入させる。まず、二つのディスクール、または、二つのテクストである。これをT1、T2 としよう。T1は、文面が一度目に出現して、それが採用されているテクストであり、T2は、同じ文面が、再び採られたものとして、二度目に現れているテクストである。次に、文面自体である。これをtとしよう。tはT1とT2の間で交換される対象である。それから、二人の著者である。これをA1、A2としよう。共にtの言表行為の主体であるが、A1はT1の、A2はT2、それぞれにおけるtの言表行為の主体である。(…)

 あるテクストから別のテクストへ、T1からT2 へと、tが移動することは、二つのテクストの間に橋が架かるということ、連結がなされるということである。バフチンにしたがって、この橋を〈対話〉と呼ぶこともできるかもしれない。私としては、コノテーションの網の目がそれほど込み入っていない、より自明であると思われる用語、すなわち〈関係〉という言葉を使いたいと思う。引用は、二つのテクストに関係をつけるのである。しかし、関係を結ぶのは言表行為である、というか、言表行為の反復である以上、関係は、言表行為の主体である二つの主体A1とA2を巻き込んでいる。したがって、引用が引き起こすものは、ただ単に二つのテクストT1とT2 の間の関係だけではけっしてありえない。引用が引き起こす関係とは、二つのシステムの間の関係、すなわち、S1(A1、T1) とS2(A2、T2)の間の関係なのである。

『第二の手、または引用の作業』交換関係 pp74-75

記号としての文

 記号とはなんでしょう。文はいくつかの記号から構成されていますが、文それ自体は記号ではありません(これはエミール・バンヴェニストが『一般言語学の諸問題』で追究した議論です)。コンパニョンはこれに対して、独自の主張を付け加えます。間ディスクールを構成する文は、文を構成する記号のように、「間ディスクールにおける記号」になることがあるのではないか、と。

上位の分析水準、すなわち、間ディスクール的現象の分析水準との参照において、もうひとつの戦略を採用することができるのではなかろうか。そして、ある種の文については間ディスクール性において記号であるということを認めることができるのではなかろうか。

『第二の手、または引用の作業』引用が記号になる(記号になった引用) p77

 記号が文の中で反復されるように、「引用」が間ディスクールにおいて反復されるのです*1

引用の三項構造

 議論を深めるためにパースの記号論が参照されます。パースの三項構造は対象、記号(表意体)、解釈項から構成されます。例えばある現象そのもの(対象O)は、それを表す記号R(「血」)と共に提示されます。私たちはそれに「殺人」「供犠」「鼻血」といった解釈Iを次々と展開します。

 

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対象、記号(表意体)、解釈項

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対象から生じる解釈の系列

 コンパニョンは引用の記号的関係もまたこの三幅対によって説明します。先の引用の図式にあてはめるならば、テクストT1における引用tは対象Oであり、テクストT2におけるtはOに対する表意体Rです。そしてテクストT2は複数の読者によって複数の解釈Iが生み出されます。こうしてtは「意味」のある記号となり、同時に解釈項の系列を成します。

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引用から生じる解釈項の系列

 

引用の分類

 テクストが別のテクストに移動するというただひとつの現象を「引用」としましたが、引用によって生じる意味は単一ではありません。「複数の意味の表れ方」については、再びパースの記号論に依拠して整理されます。

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記号の3つの水準とそのカテゴリー

 記号は三つの潜在性ないし観念性のカテゴリーと、三つの観点から分けられます。〈純粋文法学〉Aは、それ自体としての記号、それが記号であることが真であることがらを語る水準です。〈純粋論理学〉Bは、記号がその対象と結ぶ関係について、記号が対象の代わりとなることが真でなければならないことを語る水準です。〈純粋修辞学〉Cは、記号が解釈項と結ぶ関係について、記号と対象が結ぶ関係と同じ関係になるために真でなければならないことを語る水準です。

 コンパニョンは以降の議論をBとCに絞ります。Bは引用の理解であり〈意味作用の価値〉の産出、Cは引用の解釈であり〈反復価値〉の産出にまつわる問題となります。

引用の記号的な〈関係〉

 さて、これで本書の見通しが明らかになりました。続く、シークェンスⅢ引用の前史―引用の系譜学では、二つのシステム(著者とテキスト)の関係の組み合わせが主題となります。引用のシステムの関係性、対象を表す表意体とそこから生じる解釈項の問題を通時的に捉えることで、引用の解釈は開かれ、無限の系列を成し、対象に非決定的な意味を、幾何学的な意味の星座を示すことになるでしょう。

第二の手、または引用の作業 (言語の政治)

第二の手、または引用の作業 (言語の政治)

 

 

*1:tがS1とS2の〈関係〉から生じたものか、S1とS2それぞれで自然発生的に書かれたものかによって、tの性質は異なるものと言えます。tが二つのSの関係の中で生じた場合に限り、それは間ディスクールにおける記号となります。これはジェラール・ジュネットとネルソン・グッドマンの対立に通じる問題です。詳しい議論はジェラール・ジュネット『芸術の作品』や R・ロシュリッツ「芸術作品の自己同一性」から知ることができるでしょう。

バトモロジー(言説測深学、段階論)/テクストの深さ

 ロラン・バルトはテクストの在り方に一つの学問分野「バトモロジー*1」を想像しました。ギリシャ語の βαθμός (段階、程度、ステップ)に接尾語の -logie (学)を付けた自身による造語です*2。日本語では言説測深学*3あるいは、段階論*4と訳されています。

 バルトの半自伝的断章『彼自身によるロラン・バルト』にバトモロジーに関する記述があります。

 すべての言述は度数のたわむれのなかにとらえられている。それを《段階論〔バトモロジー〕》的な仕組みと呼ぶことができる。新しい研究分野を着想したときは、新語の創作も余計なことだとは言えまい。それは、言語活動の段階性という分野だ。その学問は前代未聞のものとなろう。なぜならそれは、表現、読み取り、聞き取りについての従来から慣習的に認められていた審級構造(「真理性」、「実在性」、「誠実性」)をぐらつかせるはずなのだ。その研究の根本原理は、動揺を与えるということである。それは、人が階段の一段を飛び越えるように、どのような《表現》をもまたいで進むものであろう。

 

p90 第二度およびそれ以降 Le second degré et les autres『彼自身によるロラン・バルト

 私が何かを書くことが第一度、そして「私が何かを書く」と書くことが第二度。「度数のたわむれ」とは引用の戯れのことであり、私たちは常に既にパロディー、両義語法、暗黙の引用の世界に埋め込まれている。アントワーヌ・コンパニョンはこの主張を拡張することで、私達の言語活動をより生き生きとした描写で写し取ります。

 ロラン・バルトは、ディスクールのさまざまな次元に関するひとつの学の出現を求めていた。バルトは、それを〈言説測深学バトモロジー〉と命名した。その目的は、言語活動を段階的に配置することであり、言表のジグザグの諸段階に応じて、自由に、意味の標高差を付けることであった。たとえば、ギユメや、ギユメのなかのギユメなど、段階付けは自由に可能である。ギユメとイタリック体は、テクストにおける快楽、甘いお菓子、あるいは、思い出の数々として、ふんだんにある。エクリチュールのなかに、そして、読書(誘惑)のなかに情熱さえ存在するならば、その情熱は言表の諸々の次元を廃棄し、悔恨も下心もない愚言をも受け入れるだろう。そもそも、ギユメとイタリック体は、最初の草稿に属するものではない。自分の書いた文章を再読しながら、それに反対を叫んだり、激しく攻撃したりしないために(自分を検閲する、つまり、自分を廃棄することなど、どうしてできようか)、私は、中庸の態度を採る。私は、誘惑のテクストの上に、部分的な放棄(密告)の足組を重ねていく。私は、言表と、そのレベルを、いくつかの区域のなかに、あるいは、いくつかの特徴的な中継地点のなかに、囲い込もうと企てる。それは、ちょうど、作曲家が、楽譜の上で、演奏家に提示するリズム指示や解釈ベクトルのようなものだ。

 

p58 悪いのはギヨームだ『第二の手、または引用の作業』

 ギユメは著者の言い逃れであり、イタリック体は著者の言表の本質である*5。ここから文章の奥行き、深さを表せるというのです。

 引用をここまでにすれば、非常にすっきりとした主張で終わるのですが、引用の恣意性をあえて棄却して読みを続けましょう。

 しかし、言表は、テクストの全体に散種されている。極限的には、ひとつひとつの単語が、異なる次元上で記述され、新しい主体に出頭を促す。ひとつひとつの単語は、固有の記号で囲まれるべきものとなるだろう。〈言説測深学〉も、認知された数個の指標に没頭するのだとしたら、それは中身の乏しいものとなるだろう。言表が逃走するとき、諸々の次元がぶつかり合うとき、言葉に備給する力がオープンに闘争するとき、そのようなときに力を持つのが、解釈である。多くのテクストは、次元を下げ、言表の元の状態を受け入れるだろう。そこからは、ギユメもイタリック体も消えて、平板なものとなる。それらの諸々の主体は、未分化状態に置かれ、それらの多形性も、階層秩序を失う。言表の各段階がすべて、読解のなかで、誘惑のなかで、覆いを暴かれるべきものとなる。ところで、このようなことは、常に起こっていることではないだろうか。ギユメだらけでジグザグの多いテクストにおいて、私は、まず、テクストのギユメを全部外すことから始めて、それを、自分が置きたいところに置く、どのような読解も、エクリチュールのなかに隠れている言表に対して、異議を申し立て、その位置をずらそうとする。そして、そのとき、読解の邪魔をするのは、ギユメではないのである。

 

p59 悪いのはギヨームだ『第二の手、または引用の作業』

  コンパニョンはバトモロジーに関する主張を翻します。この結論は6章「濁ったエクリチュール――引用の奇形学」の前哨であり、浮き出たテクストの「平坦化」の予告とも言えます。

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WINDOW SANDWICH 2.5

 テクストは本来重層的なものです。物理的な本としての重層性(装丁)もあれば、形式的な重層性(タイトル、著者、目次)、本文の重層性(章節、引用、脚注)、さらには社会的な重層性もあります。物理的な本は、私たちが意識している以上に複雑に折りたたまれているのです。電子書籍に「決定版」が無いことから、ここに意想外の精妙さが隠されていることは明白です。

 著者がテクストの中に置いた「躓きの石」は〈本〉になることで取り払われ、「平坦化」したテクストに固定され、読者に提示されます。著者が懸命に作り上げた精密な(あるいは偶然出来上がった)ザラつきは〈本〉化することで消え去ってしまうのです。しかしこれで終わりではありません。読者は読者自身の判断で切り込み(「アンダーライン」)を与え、引用(「切除」)してしまうことでしょう。〈本〉の記号論は静態的なものに留まっていないはずです。

*1:bathmologie

*2:bathmologie — Wiktionnaire

*3:『第二の手、または引用の作業』

*4:『彼自身によるロラン・バルト』『ロラン・バルトによるロラン・バルト

*5:

凡例

一、書名・作品名は『 』で、訳者による補足は〔 〕で示した。

一、原文イタリック体の箇所は主として〈 〉で示し、特に強調の意味が強いと判断された場合は傍点を付した。

一、原文イタリック体でない場合でも、キーワードとして考えられる場合や、訳文上読みやすいと考えられる場合には、便宜上〈 〉を用いた場合がある。

一、原文大文字で始まる単語は基本的に《 》を用いたが、煩雑を避けて特に用いなかった場合もある(例:《聖書》/聖書))。なお、全大文字による強調は《 》を用いたうえにゴチック体とした。

 

凡例『第二の手、または引用の作業』

『第二の手、または引用の作業』相互注釈への案内文

 『第二の手、または引用の作業』(アントワーヌ・コンパニョン)は、第三期課程博士論文を底に刊行された、著者最初期の作品です。1979年にスイユ社(仏)から出版され、本邦では2010年に水声社「叢書言語の政治」の一冊として翻訳出版されました。

 文学理論と構造主義の折衷の流れを汲み、ロラン・バルトジュリア・クリステヴァらの強い影響を読み取ることができます。特に論文の執筆に際してクリステヴァが一貫して指導したという点は、本書の成立の背景として特筆されます。

第二の手、または引用の作業 (言語の政治)

第二の手、または引用の作業 (言語の政治)

 

 「テクストは引用の織物である」(ロラン・バルト

 私たちの言表行為は引用から成り立っています。しかし、引用という言語活動を分析しようとするやいなや、引用の意味はずらされ、手中から逃れ去ってしまいます。コンパニョンは引用の「二重性」を丹念に解きほぐすことで、超テクスト性の境位を明らかにしようと試みます。

引用を巡る四つのシーケンス

 コンパニョンは引用の様相を現象学記号学、系譜学、奇形学という四つの視点から整理します。

« 引用の現象学 »

 私たちが日常的に行っている引用の直接的な身振り、振るまいとしてのテクストの実践。書くこと、読むことの状況に置かれた主体に関する記述。つまり言表行為としての引用。全ての引用の基底。

« 引用の記号学 »

 引用の共時的な分析。引用が行われる言説、また引用の言表行為における意味の様式。パースの記号論を引用し、類型学的に形式化する。

« 引用の系譜学 »

 引用の通時的な分析。引用を巡る歴史的エピソードから、引用を類型化する。

(1)古代の修辞学

 アリストテレスからクインティリアヌスまで。引用の言説それ自体に弁証的な価値、論理学的な価値が認められていた時代。つまり相互注釈による「模倣ミメーシス」である。また、それに対するプラトンの弾劾を背景にする。

(2)教父学の注釈

 権威アウクトリタスとしての引用の時代。キリスト教解釈学の主唱者オリゲネス以降顕著となる引用の実践。

(3)近代的引用の出現

 印刷術の発展と共に現れた「エンブレム」としての引用(ラムス、エラスムス、モテ―ニュ)と、その批判(パスカル、アルノー、ニコル、マルブランショ)の時代。周縁記述ペリグラフィー=「枠」による相互注釈の抑制によって、書物の再構築が興る。

« 引用の奇形学 »

 現代における特異な引用の実践。引用は引用符号ギュメから解放される。引用は「連続したセリエル」反復(無限運動)の中の「徴候」としての価値、モンテーニュの実践とも形容される「エンブレム」に似た価値を持つに至る。

私たちが探究する「引用」とは何か(序より)

 本書は次のように始まります*1

 本書は特定の対象を持たない、というより、ひとつに特定化された対象を持たない。それは複数、少なくとも二つあり、本書はその二つの間を往復する。最初の女性を誘惑した蛇の舌と同じように、二つに裂けているのである。第一の対象は<引用>、ホッブスが料理を台無しにするクローブと許容した引用であり、第二の対象は<引用という作業>、自己所有化、あるいは、奪取、つまり、移動によって引用を差し押さえる力の行為である。すべては書くことエクリチュールそれ自体であり、このような力の発動である。すべては書物であり、このような移動である。 (・・・)あらゆるエクリチュールは注釈であり相互注釈であってあらゆる言表行為は反復である。これが本書の前提である。本書は、反復の単純な形式であり書物の端緒でもある引用を検証しようとするものである。

 『第二の手、または引用の作業』p.13 

 引用を巡る分析は二重化、複数化します。言説が反復するたびに、引用はその様相を変えて目の前に現れます。私たちはここから二重化、複数化した結論を導くことができるはずです。

目次(日本語訳)

シークェンスⅠ 引用、その本来の姿――引用の現象学
1 ハサミと糊壺
2 切除
3 アンダーライン
4 適応
5 誘惑
6 行為としての読書
7 ハサミを持った男
8 換喩による列聖
9 接木
10 再び書くこと
11 引用の作業
12 作業の力
13 引用の主体
14 悪いのはギヨームだ
15 摩擦クラッチ
16 動かす力

シークェンスⅡ 基本構造――引用の記号学
1 引用の位置
2 間ディスクール的反復の単純型
3 交換関係
4 引用が記号になる(記号になった引用)
5 内的促し〔内部引用〕
6 引用の意味作用と価値
7 再認、理解、解釈
8 反復価値の形作る星座
9 使用価値と交換の価値
10 意味と外示
11 真理と真正性
12 引用の二値的固有性
13 増幅

シークェンスⅢ 引用の前史――引用の系譜学(1)古代の修辞学
1 引用はラングの普遍的事実か?
2 形式と機能
3 意味場の分析
4 ギユメと〈ミメーシス〉
5 反復の力……
6 ……そして対話の濫用
7 シミュラークル
8 目を引くもの
9 〈良い〉引用?
10 レミニサンス対ロゴグラフィー
11 真なるものと真らしいもの
12 〈グノーメー〉または修辞的引用
13 〈グノーメー〉の発話戦略
14 精神と身体
15 〈センテンティア〉と感受性
16 ディスクールの見事な身体
17 《ウォクス》――憑依
18 ディスクールの内的制御

シークェンスⅣ 絶頂――引用の系譜学(2)神学ディスクール
1 モノグラフィー
2 引用の系統学
3 神学タイプライター
4 注釈すること
5 起源について
6 キリスト教のミドラーシュ?
7 一次テクストの状態
8 二つの聖書
9 意味の複数性
10 オリゲネスの工夫
11 キリストの二重性
12 神学の《ロゴス》
13 要約された言葉
14 物神フェティッシュ
15 主なシニフィアンとその結合関係
16 神学ディスクールの賦活
17 終わりのないディスクール
18 神学機械の非同期的制御
19 ディスクール連鎖
20 アウクトリタス
21 系列の終焉
22 困難に陥る主体
23 詐術
24 「口を広く開けよ、私はそれを満たそう」
25 つづく

シークェンスⅤ テクストの固定化――引用の系譜学(3)近代的引用の成立
1 動転するエクリチュール
2 物注釈は虚偽であるコメンタティオ、コメンテイティア
3 権威の危機
4 死語
5 テクストへの回帰
6 印刷されたページ
7 ギユメとイタリック
8 具体例の理性
9 エクリチュールの空間的モデル
10 活字
11 エンブレム
12 印刷者の商標
13 格言
14 エラスムスとホルバイン
15 歪像
16 引証と引用
17 モンテーニュの塔
18 モンテーニュのメダル
19 唯名論
20 記号の信用価値
21 全方位的引用
22 記憶障害
23 ペリゴールの午後
24 タイム!
25 尋問台の上のモンテーニュ
26 修辞学に取り込まれる
27 ナルシスへの教訓
28 エクリチュールの古典主義的制御、あるいは、ホメオスタシスとしてのテクスト
29 書物の周縁=周縁記述ペリグラフィー
30 題されたものアンテイテユレ資格を与えられたものアテイットレ
31 ビ(ブリ)オグラフィ
32 ダイアグラムまたはイメージ
33 正面に
34 前哨
35 殺菌消毒する溝
36 書物の始まりとエクリチュールの終わり
37 エクリチュールの天性
38 憑依、血肉化、所有

シークェンスⅥ 濁ったエクリチュール――引用の奇形学
1 完成した引用
2 エクリチュールの経済学
3 奇形学
4 祝宴
5 詰め込み
6 だまし絵
7 充足非理由
8 悪文
9 構造とセリー
10 気まぐれな引用
11 平坦化
12 間あいし
13 徴候
14 アンペール人形または精神の道化役
15 エクリチュールの空間

この尻尾はこの猫のものではないエスタ・コーダ・ノン・ディ・クエスト・ガット*2

目次(原書)

AVANT-PROPOS

SÉQUENCE Ⅰ. LA CITATION TELLE QU'EN ELLE-MÊME
1. Ciseaux et pot à colle
2. Ablation
3. Soulignement
4. Accommodation
5. Sollicitation
6. La lecture à l'œuvre
7. L'homme aux ciseaux
8. Une canonisation métonymique
9. Greffe
10. Récriture
11. Le travail de la citation
12. La force de travail
13. La sujet de la citation
14. La faute à Guillaume
15. Embrayage à friction
16. Mobilisation

SÉQUENCE Ⅱ. STRUCTURES ÉLÉMENTAIRES
1. Situations de la citation
2. La forme simple de la rèpètition interdiccursive
3. Une relation d'échange
4. La citationfait(e) signe
5. L'incitation
6. Signification et valeus de la citation
7. Reconnaissance, compréhension, interprétation
8. La constellation des valeurs de répétition
9. Valeur d'usage et valeur d'échange
10. Sens et dénotation
11. Vérité et authenticité
12. L'inhérence bivalente de la citation
13. « Amplification »

SÉQUENCE Ⅲ. LA PRÉHISTOIRE DE LA CITATION
1. Un fait de langue universal?
2. Forme et fonction
3. Analyse d'un champ sémantique
4. Le guillemet et la « mimésis »
5. Pouvoir de la répétition...
6. ... et abus du dialogue
7. Le simulacre
8. Donner à voir
9. Une « bonne » citation?
10. La réminiscence contre la logographie
11. La vrai et le vraisemblable
12. La « gnômé » ou la citation rhétorique
13. Stratégie énonciative de la « gnômé »
14. L'esprit et le corps
15. « Sententia » et sensibilité
16. Le corps merveilleux du discours
17. « Vox » : la possession
18. Une régulation interne du discours

SÉQUENCE Ⅳ. UN COMBLE, LE DISCOURS DE LA THÉOLOGIE
1. Une monographie
2. Une systématique de la citation
3. La machine à écrire theologale
4. Commenter
5. De l'origine
6. Un Midrash chrtéien?
7. État du texte premier
8. Les deux Écritures
9. Le pluriel des sens
10. L'astuce d'Origène
11. Le rouleau doux comme du miel
12. La duplicité de Christ
13. Le « Logos » théologal
14. Le Verbe abrégé
15. Le fétiche
16. Les signifiants majeurs et leur combinatoire
17. Second souffle du discours thoélogal
18. Un discours interminable?
19. La régulation asynchrone de la machine théologale
20. L'enchaînement des discours
21. L' « auctoritas »
22. Fin de série
23. Le sujet en porte à faux
24. L'imposture
25. « Ouvre ta bouche et je la remplirai »
26. A suivre

SÉQUENCE Ⅴ. L'IMMOBILISATION DU TEXTE
1. L'écriture dans tous ses états
2. « Commentationm, commentitia »
3. La crise d'autorité
4. La langue morte
5. Machine arriére
6. La page imprimée
7. Guillemets et italique
8. La rasion de I'exemple
9. Un modéle spatial de l'écriture
10. Le caractére mobile
11. L'embléme
12. La marque d'imprimeur
13. L'adge
14. Erasme et Holbein
15. L'anamorphose
16. Allégation et citation
17. La tour de Montaigne
18. Le jeton
19. Nominalisme
20. La valeur fiduciaire de signe
21. La citation tous azimuts
22. Troubles de mémoire
23. Les après-midi périgourdines
24. Pouce!
25. Montaigne sur la sellette
26. Reprise en main rhétorique
27. La leçon faite à Narcisse
28. La régulation classique de I'écriture ou le texte comme homéostat
29. La périgraphie
30. L'intitulé et I'attitré
31. La bi(bli)ographie
32. Diagramme ou image
33. En faaçade
34. L'avant-poste
35. La fosse aseptisante
36. Le commencement du livre et la fin de l'écriture
37. La vocation d'écriture
38. Possession, appropriation, propriéte

SÉQUENCE Ⅵ. L'ÉCRITURE BROUILLÉE
1. La citation achevée
2. Une économie de l'écriture
3. Tératologie
4. Festivités
5. Farcissure
6. Le trompe-l'œil
7. La déraison suffisante
8. La cacographie
9. Structure et série
10. La citation capricieuse
11. Le nivellement
12. La maculature
13. Le symptôme
14. Le bonhomme d'Ampére ou le spiritual histrion
15. Espaces d'écriture

QUEST CODA NON É DI QUESTO GATTO

*1:正確には次の3つのエピグラフ=注釈から始まります。

まず、作品と歌が完全にゼロから創造されうるなどとは誰も思わない。それらは常に、あらかじめ記憶という不動の現在のうちに与えられている。伝達されない新しい言葉などというものにいったい誰が関心を示すだろう。重要なのは言うことではなく、再び言うことであり、しかもその繰り返しのなかで、そのつど、初めて言うことなのである。

モーリス・ブランショ『終わりなき対話』

われわれにおいて、地球上で、おそらく宇宙において、いまだかつて言われたことがなかったものほど恐ろしいものはない。すべてのことがこれを限りにと最終的に言われた時になって初めて人は安らかになれるのだろう。その時になってやっと、人は静かになり、黙るということを怖がらずにすむ、これでよし、というわけだ。

セリーヌ『夜の果てへの旅』

昔のように筆写すること。

ギュスターヴ・フローベールブヴァールとペキュシェ

*2:訳書注「イタリア語の諺で、初めと終わりが一致しない、話が違うの意」

作者の復活

 コンピュータの登場によって、作者の役割が書物-外へ移行することについての覚書。あるいは予感。

インターネットと構造主義

 インターネットと構造主義の有縁性については幾度となく指摘されてきました*1。ヴァネヴァー・ブッシュの連想システム(メメックス)から始まり、テッド・ネルソンのハイパーテクスト、そしてティム・バーナーズ=リーのワールド・ワイド・ウェブ(www)。加速度的に増える情報量に対してラリー・ペイジに代表される「検索」の思想が拡がったのは必然と言えるでしょう*2
 もう一方には構造主義者(あるいはポスト構造主義者)と呼ばれるデリダフーコー、バルト、バフチンクリステヴァらの言説が連なります。「網目(ネットワーク)」「蜘蛛の巣(ウェブ)」「結節点(ノード)」「連鎖(リンク)」「痕跡(トレース)」「間テクスト性」「相互関連 」「母型(マトリックス)」といった、インターネットを象徴させる述語が多く生み出されました。

 今現在、インターネットを通じた情報技術が果てしなく成長する一方で、それに比肩しうる哲学的な言説は、どこにもありません。むしろ停滞しているとさえ言われています。「新たな書物」と呼ばれうる脱中心的な文学、ハイパーテクスト文学、すなわちその実装としてのインターネットが文学の主戦場になると思われましたが、半世紀以上経た今も、その兆しはありません。情報の記憶や伝達、ゆるやかな繋がりの手段としてインターネットは大きく成功しましたが、電子出版システムとしての駆流を起こすことは未だできていないのです*3

 平坦な文章と、凸凹な文章

 インターネット上のテキストは水平に並べられ、途切れやすいリンクで繋がっています。このため、発せられた言説が分かりやすい「表面」だけに切り取られていることがしばしばあります。これは書き手が意図的に行うこともあれば、読み手の不注意に過ぎないこともあります*4*5

 構造主義によって半ば逆説的な形で明らかにされたこと、それは、書物とは重層的に構造化されたものだということです。書物には平板な浅いリンクだけでなく、深いリンクが張り巡らされている。深いリンクを通じてテクストの「窓を覗く」、あるいは、「折り目を開く」ようにして、テクストの向こう側にある別のテクストに触れることができるというのです。書物は紙という一見平坦なもので構成されていますが、文献としての重層性を長い年月をかけて獲得してきました。例えばタイトルと著者名というパラテクストは最初期に現れた重層性です(それ以前、すなわち写本時代における書物の眼目は書き写しですから、それらは余計なものでした)。タイトルは「〜について」という書物の要約を表すようになり、著者名はテクストに権威を与えるようになります。更に修辞学的な配置である目次や章節が現れ、第二次の要約としての序言、議論の横道を案内する注釈と書誌(関連文書、先行研究)、またギョームによって発明された引用符号、学術的な装いをもたらす索引。これらは書物を孤立したオブジェクトとして扱うのではなく、文学全体における地理的マッピングをするために組み込んだ構造と言えます。

 テッド・ネルソンはこれらをリテラリー=文献、文学と呼び、新しい書物の「本当の」あるべき姿としました。現在のインターネットには、このような構造は十分に再現されていません。 テッド・ネルソンの構想した人文知としての新しい書物「ザナドゥ」は、残念ながら日の目を見ることはありませんでした。後世の人達はきっと「なぜ初めからザナドゥのようなインターネットを作らなかったのか」と非難するでしょう*6

  そもそもインターネットの起源は協調システムです。この点については一定程度成功しました。共有資産としての知の交流は活発化し、OSSやフリーライセンスという言葉も世の中に定着しつつあります。その一方でコピーライト、著作権の思想は希薄になってしまいました。極端に推し進めたコピーレフトの思想さえあります。これは決して手放しで称賛できる事態ではありません。著者=権威を維持することができないということは、著者としての責任を放棄することと表裏一体です。「それでもやっぱり…」と、小さな著者達は実名やハンドルネームを付加することによって辛うじて権威を維持しています。

 テッド・ネルソンはハイパーテキストを真に文学的な問題として捉えました。これはインターネットの起源には無かった思想であることは強調してもよいでしょう。彼が理想とするのは、ネットワークを介した、コンピュータによる普遍的な電子出版システムです。ここではユーザレベルで表面だけを見ることもできますし、深いリンクを伴った重層構造を見ることもできます。この仮想と実体を分離したFEBE構成*7は「ドキュバース(docuverse)」と言い表されます。このテキストの断片(レクシ*8)の集合は、ブッシュならトレール(経路)、デリダなら痕跡、ドゥルーズならアーカイブ(書庫)、コンパニョンなら間紙と言い表していたものでしょうか*9

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The Xanadu Document Model

http://xanadu.com/xuTheModel/

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TRANS COPYRIGHT

http://xanadu.com/tco/index.html

 私はドキュバースにおける、新たな著述のスタイルを次のように分類します。explicit author (文献を編集・整理し、引用する者)implicit author(書物を収集・整理し、関係を与える者)。前者のテキストには大量の引用窓があり、それを覗いて、更に深く潜ることができます。後者のテキストには大量の付箋や余白への書き込みがあり、幾重にも重なった厚みの上に、更に厚く書き加えることができます。新たな書物の表面は、指先の感覚では捉えられないほど微細な凸凹で埋め尽くされています。

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lexias of docuverse

 文学とは個々の独立したテキストではなく、複数のテキストとの見えない相互連関の網目のなかで、引用や参照、テキストの配置を繰り返す作業、つまり文献と文庫の流動的な空間の総体です。タブララサではなく、コラージュ(アッサンブラージュ)。これはパランプセストという言葉で、既に何度も囁かれてきたことです。

 こう想像できます。広大な一枚の紙を人類で共有し、局地的な規範の中で上手く文書をやり取りしているのが、インターネットという世界です。全体を見渡すと何の統一性もない表面が広がっています。その一方で、広大な知の関係性の集積を二、三センチメートル程度に畳むことができる皺くちゃな世界、それがドキュバースです*10

新たな書物へ向けて

 私達にはまだまだ想像力が必要です。

  • 大量のリンクによって繋がるレクシを構成、貯蔵する空間(ドキュバース)
  • ドキュバースによって保証される新たな著作権の仕組み
  • ドキュバースのデザイン、あるいは編集することによって書物を生成する電子的な出版システム、あるいはそれを管理する電子的な図書館*11

新たな作者の誕生

 15世紀のグーテンベルク革命は、短期間で急激に変化をもたらしたわけではありません。印刷技術としての書物が定着するには100年以上要したとさえ言われます。後から振り返ることで15世紀に印刷革命が起きたと判断しているのです。であるならば、20世紀のコンピュータ革命、インターネット革命は過去の出来事ではなく、今まさに起こっていると考えるべきでしょう。
 書物における〈作者の死〉は必然的な死でした。書物によって知が飽和したことによる必然的な死、つまり寿命です。グーテンベルク的な世界の権威(著者)は、コンピュータの登場によって「新たな書物」に移行するでしょう。ここで作者は幽霊として復活します*12

*1:ジョージ・P. ランドウ『ハイパーテクスト―活字とコンピュータが出会うとき』ジェイ・デイヴィッド ボルター『ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュール

*2:これは単純化した上澄みとしての歴史です。ARPANETに象徴されるように、研究予算や設備の多くは国家戦略から生まれたものです。ここには当然政治経済を巻き込んだ錯綜とした歴史があります。

*3:むしろ悪いことに「ポストトゥルース」という言葉で象徴されるように、インターネットは嘘を流布し、真実を散逸させる、悪しきメディアだという論調さえあります。この失敗は利用者側に帰するべきではないでしょう。「リテラシーが低い人たちのせいで…」「倫理観の問題であり…」

*4:他者を矮小化する仕組みは、グローバリズムの世界における不幸の種とも言えます。ある言説が真実か否かを判断することはインターネットでは難しい問題です。

*5:URLの階層構造があるじゃないか?利用者の一体何割がそんなことを気にするでしょう。書み手と読み手のリテラシーに強く依存した言説では、普遍的な価値を作ることができません。

*6:

 たいていのハイパーテキスト・プロジェクトが、「必要なのは~だけ」という方法で始められた。このような方法においては、前で述べたような問題はそれなりの理由を付けて無視されることが多い。〈実行するのが難しい〉からだ。しかし、プロジェクトの後半で開発者はこの種の問題に対処する機能を〈付け加え〉始めた。残念なことに、こうしたことを後で付け加えることと当初から設計に組み入れておくのとでは格段の差ができてしまう。そのため、今あるハイパーテキストに何かを組み入れても、多くの問題を解決することは難しい。

 「ザナドゥみたいな複雑なものは必要ない」と言う人もいる。これはふたつのレベルで誤りだ。まず、ザナドゥ・システムはユーザーレベルでいかようにも単純にできる。次に、ネットワークやリンクの種類や履歴の追跡、枠付けなどの特徴を〈付け加える〉ことが泥沼のような複雑さを招くということだ。結局本当に必要なのは、こうした特徴を最初から組み入れて設計したシステムなのだ。(テッド・ネルソン『リテラリーマシン―ハイパーテキスト原論』)

*7:FEBE…フロントエンドバックエンド。これは一般的な用語ではなく、ザナドゥ固有の表現として理解すべきでしょう。

*8:

われわれは、読書によっては文章の語り口や物語の流暢な話し振りや流れるような言語活動の自然さによって眼にみえないように熔接された滑らかな表面しか捉えられない意味作用significationの塊を、小地震のようなやり方で切り離し、テキストにひびを入れるだろう。原テキストの記号表現は切り分けられ、隣り合った短い断片の連続となるだろう。それを本書では、レクシlexieと呼ぶことにしよう。なぜなら、それは読書の単位だからである。

*9:

 伯父のこの最新式のアメリカ製の書き物机は、なにか新しい物の象徴としてそこにある。その新しさとは、さまざまに考えることができようが、まず見落とすことができないのは、そこに体現されている機能的に完ぺきな分類方式である。機械仕掛けによって無数の変容をとげてゆくのは、すべて引き出しなのである。これら引き出しは、どんな書類でも、処理できる無限の収納スペースを実現する。しかも、そこに収納されるのはもはや、統一性を保持した書物という単位ではなく、書物の断片としての書類の束である。ベンヤミンの『一方通交路』で、昨今の学者の研究方法を観相学的に判読してみせる。ある学者が一冊の本を書こうとする場合、その書物の内容にかんするポイントは、その著者のカード・ボックスにすべておさまっている。それをもとに、彼は一冊の本を書き上げる。別の研究者は、その書物を読者として読み、研究したうえで、そのポイントをまた自分のカード式索引ボックスに収納する。書物は、もはや今日、ふたつのカード式索引システムのあいだをとりもつ、一介の「周旋屋」にすぎなくなってしまった。ベンヤミンのひそみにならえば、カールの伯父の機械仕掛けの書き物机において、最新型の分類システムに分類され、収納されるのが書物でないのは、けっして偶然などではない。ここで、書類とカードは、書物という統一体の断片として等価である。意味するものの統一体として書物は、意味されるものの超越的先行を前提にしてきたが、その統一性が断片化しているのである。最新の分類システムは、本の統一性という理念を分解してしまうのだ。

原克『書物の図像学』p.180

*10:

アレフの直径はおそらく二、三センチメートルにすぎなかったが、そこに全宇宙が、縮小されることもなく、そっくりそのまま包含されていた。個々の事物(たとえば鏡の表面)はそれ自体無限であった、というのは、わたしはそれを宇宙のあらゆる地点からはっきり見ていたからである。(・・・)あらゆる角度からアレフを見、アレフのなかに地球を、そして地球のなかにアレフを、さらにまたアレフのなかに地球を見た。わたし自身の顔と五臓六腑を見た……要するにわたしは、あなたの顔を見たのだ。(ホルヘ・ルイス・ボルヘスアレフ」『ボルヘスとわたし 自撰短篇集』)

*11:これらは未だ存在しない職業です。例えテキストが電子化されて一元管理されたとしても、人文的な知を結集させた重層的な書物を作ることは容易ではありません。思慮深い司書や、興味の尽きない著者、厳密な編集者は極めて数学的な手段でドキュバースの空間を探索することになります。

*12:余談ですが、旧来の書物やインターネットで幽霊を見ることは、鋭いセンスが求められます。言い換えればドキュバースでは誰もが幽霊を見たり、呼び出したりすることができるようになります。よく見れば幽霊見たり枯尾花

〈引用窓〉によるトランスクルージョン

 複合文書の論理は単純である。文書の所有権の概念に基づいているのだ。文書にはすべて所有者がいる。所有者以外の誰も修正できなければ、この文書の一体性は保持される。

 しかし、所有者以外でも好きなだけそこから引用して別の文書をつくることはできる。このメカニズムを〈引用窓〉または〈引用リンク〉と呼ぶ。新しい文書の「窓」を通して、もとの文書の一部を見ることもできる。これを〈トランスクルージョン〉と呼ぶ。 

 窓が付けられた(あるいは窓が開いた)文書の窓とは、文書間のリンクのことである。窓を通じて引用されているデータはコピーされない。引用リンクのシンボル(またはこれと本質的に同じもの)が引用しているほうの文書に置かれるだけである。こうした引用はもとの文書のコピーをつくるわけではないので、もとの文書の一体性、独自性、所有権になんの影響も与えない。

(テッド・ネルソン『リテラリーマシン ハイパーテキスト原論』p166)

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WINDOW SANDWICH, Literary Machines 93.1 (2/35)

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WINDOW SANDWICH 2.5

 Xanalogicalな空間では、ある文書は〈引用窓〉を通じてオリジナルの文書にアクセスすることができる。テクストはあらゆる批評、引用、原典、改定版へリンクする。

 現代における紙、あるいは電子的なテキストについて、テッド・ネルソンはこう批判する。

 紙やディスクでコピーを作った人には、ダイナミックなリンクをすべて失った、相互作用のない不活性なコピーだけが残ることにも注意しよう。これは私たちが論じている世界から見れば退行的な派生現象だ。

 文字と水の類似を思い出してほしい。水は自由に流れるが、氷は違う。ネットワーク内で自由に流れている〈生きた〉文書は、つねに新しい利用やリンク結合を受けている。新しく付けられたリンクはいつまでも対話的にアクセスできる。分離したコピーは凍って〈死んで〉おり、新しくリンク結合を受けることもない。

(テッド・ネルソン『リテラリーマシン ハイパーテキスト原論』pp188-189)

 ここには、私が希求する「書き直し」の手触りがあります。

recrits.hatenablog.com