かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

続・枯尾花の時代

 

 テクストにも枯尾花の時代*1があるのでしょうか。たとえそんな時代でも、私はテクストの幽霊を見続けていたいのです。

 近親相姦的な料理本の世界では、盗作という概念は存在しないらしい。新たにローズマリーの小枝でもそろえれば、そのレシピは自分のものになる[5]。だが文学の世界のルールはもっときびしいーーことになっている。引用符を使うのがきらいだったり、日記に記した流麗な文章が実はフローベールの書いたものであることを「忘れ」たり、ローズマリーの小枝をそろえる程度にことばを変えることで、所有権が自分に移ったと思いこんだりするものは、よく知られているベンジャミン・ディズレーリのひとりよがりな(holier-than-thou[6])せりふのように、「人の知性の盗人[7]」である。

 [5]この文章はダン・オクレトンから盗んだ。ただし「小さじ一杯」を「小枝」に変えることにより、わたしのものにした。

 [6]イザヤ書 六五:五 「わたしはあなたと区別されたものだから(I am holier than thou)」*2

 [7]わたしはディズレーリのこの文句を、トマス・マロンの知性から盗んだ(『盗まれたことば』一九八九年)。マロンとアレグザンダー・リンディー(『剽窃と独創性』一九五二年)が指摘しているように、ディズレーリ自身がウェリントン公爵のための追悼演説の一部を、ルイ・アドルフ・ティエールによるサン・シール元帥への追悼演説からとっていることを考えると、この高邁なことばも説得力に欠ける。

『本の愉しみ、書棚の悩み』日の下に新しいものはない *3 アン・ファディマン

  私たちは、普段見聞きした言葉を意識せずに内面化しています。言葉を意識と無意識の中間に蓄積し、引き出しているのです。アン・ファディマン(『本の愉しみ、書棚の悩み』)が言うように、私たちは言葉を引用や改変で成り立たせ、また往々にしてその事実を「忘れ」たことにしています。潜在的に「知の盗人」たらざるをえないのです。

 もし思考が言葉に縛られるのであれば、真に自由な思考は存在しないということに帰結します。一角獣が姿を現したかと思えば、幽霊の正体見たり枯尾花という訳です。

 これは文学の文脈における問いです。つまり、何が模倣で、何が模倣でないのかという境界に関する問いです。これについてはジェラール・ジュネットの「第二次のテクスト」が問題を紐解く一つの鍵になるはずです。 

〔イペルテクスト性とは〕第二次のテクスト、もしくは、あらかじめ存在する他のテクストから派生したテクスト、という一般的な概念を提出しておこう。(…)たとえば、AについてBはまったく語ってはいないが、AがなければBはそのままの状態では存在していられないであろうといった場合であり、やはり暫定的に私が変形transformation 命名する操作の結果としてBはAから生じ、それゆえBはAを程度の差こそあれ公然と、必ずしもそれについて語ったり引用したりすることなしに喚起するわけである。『アイネーイス』と『ユリシーズ』はおそらく、程度の差はあれたしかに種々の理由からして、一つの同じイポテクスト――もちろん『オデュッセイア』――の(数ある中の)二つのイペルテクストなのである

『パランプセスト : 第二次の文学』五つのタイプの超テクスト性と、その一つとしてのイペルテクスト性 ジェラール・ジュネット

 仮に言語が複製(暗黙の模倣)を繰り返す機械であれば、真に自由な思考は存在し難いと言えます。しかし現に、私たちは、普段見聞きした言葉を運用することによって言語を変化させています(もう少し丁寧に言うならこういうことです。「私たちは普段見聞きした言葉を反復することで言語を固定させている。しかし、反復することで言語を変化させている」*4)。言葉の接ぎ木を繰り替えすことで、意味の解体構築を実践しているのです。これは私たちの持つ模倣活動の歓待すべき非意志的な賜物といえます。程度の差こそあれ、私たちのテクストはイペルテクスト性を持っているのです。

 ここまでは良いでしょう。問うべきことはここから更に飛躍します。

 模倣されるイポテクスト(イペルテクストに対して先行するテクスト)はどこにあるのでしょう。言語が単なる複製でない限り、イポテクストは不可視な存在に遠のいていくことを意味します*5。テクストが互いに引用、模倣、接ぎ木されることで、純粋なテクストである「第一次のテクスト」は跡形もなく霧散してしまうのでしょうか。

 これに対する暫定的な私見はこうです。「かつて存在したもの(失われた存在)を幻視することが、イポテクストへ通じる隘路である」と。

 限られた人間であっても、あるテクストが「これは『オデュッセイア』の焼き直しである」とか「『オイディプス神話』の現代的バージョンである」と指摘することができるのは、そこにイポテクストの影、すなわち幽霊を感知する力が備えられているからです。彼らはテクストの幻視者なのです。

 

 よく見れば幽霊見たり枯尾花*6

 

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*1:『砂漠の思想』枯尾花の時代 安部公房(1965)

*2:

言う、「あなたはそこに立って、わたしに近づいてはならない。わたしはあなたと区別されたものだから」と、これらはわが鼻の煙、ひねもす燃える火である イザヤ記 章65:5

*3:

a伝道の書 一:九「先にあったことは、また後にもある……日の下には新しいものはない」ジャン・ド・ラ・ブリュイエール著『カラクテール』(一六八八年)参照。「どんなことでも、われわれに先んじてだれかが言っている」ラ・ブリュイエールはおそらくこれをロバート・バートン著『憂鬱の解剖』(一六二一年)の、つぎの一節からとったのだろう。「われわれはすでにだれかが言ったことしか言うことができない」バートンはこれをテレンティウス著『宦官』(前一六一年)の、「あらゆることはすでにだれかが言っている」からとったと思われる。わたしはこの四つの句を比べるというアイディアを、『バートレットの引用句辞典』の脚注から盗用した。
(『本の愉しみ、書棚の悩み』日の下に新しいものはない アンディ・ファイマン)

*4:わたしはこのアイディアを、『声と現象』(ジャック・デリダ)の一解釈として盗用した。

*5:残念ながらこの議論の旗手を私は知りません。テクストの構造的歴史を探るとはどういうことでしょう?

*6:よく見れば薺花咲く垣根かな 松尾芭蕉