かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

バトモロジー(言説測深学、段階論)/テクストの深さ

 ロラン・バルトはテクストの在り方に一つの学問分野「バトモロジー*1」を想像しました。ギリシャ語の βαθμός (段階、程度、ステップ)に接尾語の -logie (学)を付けた自身による造語です*2。日本語では言説測深学*3あるいは、段階論*4と訳されています。

 バルトの半自伝的断章『彼自身によるロラン・バルト』にバトモロジーに関する記述があります。

 すべての言述は度数のたわむれのなかにとらえられている。それを《段階論〔バトモロジー〕》的な仕組みと呼ぶことができる。新しい研究分野を着想したときは、新語の創作も余計なことだとは言えまい。それは、言語活動の段階性という分野だ。その学問は前代未聞のものとなろう。なぜならそれは、表現、読み取り、聞き取りについての従来から慣習的に認められていた審級構造(「真理性」、「実在性」、「誠実性」)をぐらつかせるはずなのだ。その研究の根本原理は、動揺を与えるということである。それは、人が階段の一段を飛び越えるように、どのような《表現》をもまたいで進むものであろう。

 

p90 第二度およびそれ以降 Le second degré et les autres『彼自身によるロラン・バルト

 私が何かを書くことが第一度、そして「私が何かを書く」と書くことが第二度。「度数のたわむれ」とは引用の戯れのことであり、私たちは常に既にパロディー、両義語法、暗黙の引用の世界に埋め込まれている。アントワーヌ・コンパニョンはこの主張を拡張することで、私達の言語活動をより生き生きとした描写で写し取ります。

 ロラン・バルトは、ディスクールのさまざまな次元に関するひとつの学の出現を求めていた。バルトは、それを〈言説測深学バトモロジー〉と命名した。その目的は、言語活動を段階的に配置することであり、言表のジグザグの諸段階に応じて、自由に、意味の標高差を付けることであった。たとえば、ギユメや、ギユメのなかのギユメなど、段階付けは自由に可能である。ギユメとイタリック体は、テクストにおける快楽、甘いお菓子、あるいは、思い出の数々として、ふんだんにある。エクリチュールのなかに、そして、読書(誘惑)のなかに情熱さえ存在するならば、その情熱は言表の諸々の次元を廃棄し、悔恨も下心もない愚言をも受け入れるだろう。そもそも、ギユメとイタリック体は、最初の草稿に属するものではない。自分の書いた文章を再読しながら、それに反対を叫んだり、激しく攻撃したりしないために(自分を検閲する、つまり、自分を廃棄することなど、どうしてできようか)、私は、中庸の態度を採る。私は、誘惑のテクストの上に、部分的な放棄(密告)の足組を重ねていく。私は、言表と、そのレベルを、いくつかの区域のなかに、あるいは、いくつかの特徴的な中継地点のなかに、囲い込もうと企てる。それは、ちょうど、作曲家が、楽譜の上で、演奏家に提示するリズム指示や解釈ベクトルのようなものだ。

 

p58 悪いのはギヨームだ『第二の手、または引用の作業』

 ギユメは著者の言い逃れであり、イタリック体は著者の言表の本質である*5。ここから文章の奥行き、深さを表せるというのです。

 引用をここまでにすれば、非常にすっきりとした主張で終わるのですが、引用の恣意性をあえて棄却して読みを続けましょう。

 しかし、言表は、テクストの全体に散種されている。極限的には、ひとつひとつの単語が、異なる次元上で記述され、新しい主体に出頭を促す。ひとつひとつの単語は、固有の記号で囲まれるべきものとなるだろう。〈言説測深学〉も、認知された数個の指標に没頭するのだとしたら、それは中身の乏しいものとなるだろう。言表が逃走するとき、諸々の次元がぶつかり合うとき、言葉に備給する力がオープンに闘争するとき、そのようなときに力を持つのが、解釈である。多くのテクストは、次元を下げ、言表の元の状態を受け入れるだろう。そこからは、ギユメもイタリック体も消えて、平板なものとなる。それらの諸々の主体は、未分化状態に置かれ、それらの多形性も、階層秩序を失う。言表の各段階がすべて、読解のなかで、誘惑のなかで、覆いを暴かれるべきものとなる。ところで、このようなことは、常に起こっていることではないだろうか。ギユメだらけでジグザグの多いテクストにおいて、私は、まず、テクストのギユメを全部外すことから始めて、それを、自分が置きたいところに置く、どのような読解も、エクリチュールのなかに隠れている言表に対して、異議を申し立て、その位置をずらそうとする。そして、そのとき、読解の邪魔をするのは、ギユメではないのである。

 

p59 悪いのはギヨームだ『第二の手、または引用の作業』

  コンパニョンはバトモロジーに関する主張を翻します。この結論は6章「濁ったエクリチュール――引用の奇形学」の前哨であり、浮き出たテクストの「平坦化」の予告とも言えます。

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WINDOW SANDWICH 2.5

 テクストは本来重層的なものです。物理的な本としての重層性(装丁)もあれば、形式的な重層性(タイトル、著者、目次)、本文の重層性(章節、引用、脚注)、さらには社会的な重層性もあります。物理的な本は、私たちが意識している以上に複雑に折りたたまれているのです。電子書籍に「決定版」が無いことから、ここに意想外の精妙さが隠されていることは明白です。

 著者がテクストの中に置いた「躓きの石」は〈本〉になることで取り払われ、「平坦化」したテクストに固定され、読者に提示されます。著者が懸命に作り上げた精密な(あるいは偶然出来上がった)ザラつきは〈本〉化することで消え去ってしまうのです。しかしこれで終わりではありません。読者は読者自身の判断で切り込み(「アンダーライン」)を与え、引用(「切除」)してしまうことでしょう。〈本〉の記号論は静態的なものに留まっていないはずです。

*1:bathmologie

*2:bathmologie — Wiktionnaire

*3:『第二の手、または引用の作業』

*4:『彼自身によるロラン・バルト』『ロラン・バルトによるロラン・バルト

*5:

凡例

一、書名・作品名は『 』で、訳者による補足は〔 〕で示した。

一、原文イタリック体の箇所は主として〈 〉で示し、特に強調の意味が強いと判断された場合は傍点を付した。

一、原文イタリック体でない場合でも、キーワードとして考えられる場合や、訳文上読みやすいと考えられる場合には、便宜上〈 〉を用いた場合がある。

一、原文大文字で始まる単語は基本的に《 》を用いたが、煩雑を避けて特に用いなかった場合もある(例:《聖書》/聖書))。なお、全大文字による強調は《 》を用いたうえにゴチック体とした。

 

凡例『第二の手、または引用の作業』