かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

『第二の手、または引用の作業』意味と外示

 記号、語が引用されることによって生じる意味と外示の変化について、アントワーヌ・コンパニョンはこのように整理しました。

引用«t»と言い換えt'においては、報告される語tの〈何か〉が失われる。引用と言い換えにおいては、語tの外示が失われる。しかし、間接話法t'は、報告される語tの意味を保持し、展示し、外示する。直接話法«t»は、逆に、語tの意味を遮断したり、埋没させたりする。

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引用による語の意味と外示

 引用された語、つまりT2におけるtは、T1におけるtの本来の外示と意味を失っています。引用が表すのはtそのものであり、それは行為としての引用の意味という「意味の過剰」となります。

 さて、この議論は命題tにも置き換えられます。ある命題tは意味と外示を持ち、その外示は真か偽を表す真理価値を持ちます。しかし、引用された命題tにおける意味と外示はそのまま保持されるわけではありません。特に、その命題tの「外示」に関して、真理価値(真偽)は留保され*1、真正が問われることとなります。つまりその引用の許容可能性があるか、空無の引用でないか(レファランが存在するか)、といった外示にずらされるのです。

 この結果、引用者の主張はこのようなります。「これは『かかれたもの』だ」。この言葉は「それは書かれたものだ。ゆえに、それは真だ」という意味ではなく、「それはその通りに〔書き加えなどなく〕書かれたものだ」という意味です。

 一方、引用された命題tの「意味」の変化はこう主張されます。

その意味とは、〈tの意味〉(引用の思想内容)ではなく、〈行為としての意味の引用〉である。この〈行為としての引用の意味〉とは、究極的には、引用者の〈意志〉、ライプニッツを引用するフレーゲの意志、そして、フレーゲによって引用されているライプニッツを引用する私自身の意志に他ならない。

 以上を図式化するとこのようになります。

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引用による命題の意味と外示

  尚、本論はコンパニョンの主張というよりも、フレーゲの論文«Sens et Dénotation»(意味と外示)の一部を基にしたことが記されています。

recrits.hatenablog.com

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*1:

 念の為、引用そのものの価値を否定する論ではないことを注釈します。引用は引用そのものを〈判断〉することによって、本来の意味を再活性化することができるのです。

 語の引用の論理学的な帰結が、その語の意味に対して距離を置くことであり、その語の意味を反復の意味でもって受け継ぐことであるとしても、この帰結は、引用される語の意味が根源的に排除されるわけではないという点を強調することによって擁護されるだろう。引用される語の意味は、引用の後も生き延びる。すなわち、引用される語の意味は、引用の外示を媒介として、休眠の状態、または、待機の状態に置かれ、間接的な仕方で喚起されているのである。引用される語の意味は、引用から、二つの次元で遠ざけられてはいるものの、二つの次元のそれぞれを自らに結びつけている鎖は、断ち切られているわけではなく、引用の受容が«t»の意味とtの意味とを同時に実現できるように、一巡りすることができるのである。言い換えれば、意味の点から引用を弾劾することは、最終的な弾劾というわけではないのである。

 ここで書かれた「二つの次元で遠ざけられている」とは、本来の語tの意味と外示が、引用によってその両方が失われていることを指しています。