かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

『ディアーナの水浴』失われたかがやきを求めて

 『ディアーナの水浴』はピエール・クロソウスキー(Pierre Klossowski)によって著された、神話に関する注釈書です。

 クロソウスキーは「ディアーナの水浴」の神話が後年の解釈によって戯画化、あるいは通俗化されてしまったといいます。この出来事は単なる「覗きの光景」ではなく、「見る(見られる)」ことによって起こる人と守護霊(ダイモン)と神の精神的なダイナミズムが描かれているのだ、と。

 この主張をするに至る本書のエピグラフと緒言において、クロソウスキーはあたかも霊媒師のようです。イポテクストを幻視する者として、「永遠に遠ざかってしまった星座の光」を、追憶によってかがやかせようとしているのです。

f:id:recrits:20181225004516j:plain

Diane de Versailles

エピグラフ

 さあ語れ、衣を脱ぎ捨てたわたしを見たと、
もしお前にできるものなら、してみるがよい!
オウィディウス 転身物語 Ⅲ

緒言

 わたしはディアーナとアクタイオーンについてあなた方に語りたい。この二つの名がわが読者の精神のうちにとりどりに呼びさますものはある情況か、いくつかの姿態か、いくつかのかたちか、要するにタブローの一モチーフでこそあれ、伝説のモチーフであることはまずあるまい、なぜなら、百科辞典によって通俗化されたイメージと物語が、この二つの名をーー前者は消え去った一人類の眼差に対して神性がとった数知れぬ名のひとつであったというのにーー闖入者によって虚をつかれた女たちの水浴というただそれだけのヴィジョンにすぎなくしてしまったからだ。それでもこのヴィジョンは、《われわれがかつてもった最良のもの》ではないまでも、少なくとも想像することのもっともむずかしいものではある。だが、わが読者にしてもし追憶、そして他の追憶によって伝えられた追憶を完全に失くしていないならば、この二つの語は突如、かがやかしさと感動の炸裂のようにきらめくことができるだろう。この消え去った人類、消え去ったということば自体ーーわれわれのあらゆる民俗学、あらゆる博物学にもかかわらずーーもはや意味をなさないほどに消え去ったこの人類はそもそも存在することさえどうやってできたのだろうか。にもかかわらず、この人類が歩きながら夢見たこと、アクタイオーンの眼を夢見るまでに醒めた夢の中でこの人類がアクタイオーンの眼によって見たものは、われわれにとっては光を消し、永遠に遠ざかってしまった星座の光として、われわれのもとにまでとどいている。ところで、この砕け散った星辰が閃光を放つのはわれわれのうちでである、それはわれわれの記憶の暗闇の中、われわれが胸中に抱きながら、われわれの偽りの白日の中でのがれる大いなる星座の中でなのだ。白日の中で、われわれはわれわれの生きた言語に頼っている。しかし、ときとして、日常使われていることばの合間に死んだ言語のいくシラブルかがすべり込む、白昼の炎の、蒼天の月の、あの透明さをもつ亡霊である語。だが、ひとたびわれわれがこれらの語をわれわれの精神の薄暗がりの中にかばってやるや、それらは強いかがやきを帯びるのだ、こうしてディアーナとアクタイオーンの名が一瞬、樹々に、渇いた鹿に、波、この触れえない裸身を映し出す鏡に、それらのかくされた意味を取り戻してやらんことを。

 

ディアーナの水浴』 ピエール・クロソウスキー

ディアーナの水浴

ディアーナの水浴