かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

異様なほど細心な画家

 言葉で何かを表すことに、一種のためらいを感じることがあります。言葉を尽くしてもそれが精確に描写されることはないだろう、と逡巡するのです。そこにあるのは崇高さでしょうか、卑小さでしょうか。

 クロード・レヴィ=ストロースはブラジルでのフィールドワークの記録を『悲しき熱帯』(Tristes tropiques,1955)にまとめました。学術書とも旅行記とも言い難いこの手記は、随所に独特の観察眼が現れます。 マユセイユの港から始まる長い船旅について、こう書き出します。

いつの頃からか私は、一つの町や地方や、あるいは一つの文化の、このような極めて短時間の観察が注意力を有益に訓練し、時にはむしろ、他の状況では長いあいだ隠されたままになっていたかも知れない対象の幾つかの特質を捉えることが、観察者の利用しうる時間の短さのために必要とされる密度の高い集中によって、可能になるということを学んだ。当時は、他のスペクタクルの方が私の心をより強く惹きつけた。初心者の素朴さで、私は人気のない甲板で、これら超自然的とも思われる天地の変動を観察することに熱中した。毎日ほんの僅かのあいだに、日の出と日没は、天地の変動の始まりと発展と終末を、それまで私が眺めたこともなかったような広大な水平線の四方で、形に現してみせるのであった。もし私が、移ろいやすく、しかもそれを記述しようとする一切の努力に逆らう、これらの現象を定着するための言葉を見出していたら、また、もし私に、結局はただ一回限りで、同じ状態では決して再び生ずることのない一つの事象の、様々な段階とその移りゆきを他の人々に伝える能力が与えられていたら、そのとき私は唯のひと跳びで、恐らく私の仕事の奥義に達していたことであろう。民俗学の調査が、決まって私をそこに曝す、そして私がどうしてもその意味と重要性を他の人々に理解させられない、あの風変わりな、あるいは独特の経験はなくなっていたことであろう。
 あれから多くの年月が過ぎたが、あの時のように恩寵に侵された状態に、再び自分を置くことが私にはできるであろうか。みるみる消え去り、しかも絶えず新しくなって行くあれらの形を定着させることをあるいは可能にするかも知れない表現を、ノートを手に一刻一刻書き付けていた、あの熱病に罹ったような瞬間を再び生きることが、私には果たしてあるだろうか。この遊びは今でも私を魅惑しており、私はしばしば、それに耽りかけている自分に気付くことがある。
 船で書きつけたことーー
 (クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯Ⅰ』第2部7章「日没」)
※強調は引用時に追加

 この後、船旅に暇を飽かした日没の観察記録(遊び、気晴らし)が続きます。「画家の目」と言わんばかりの繊細さで、水平線に沈む陽が延々と描写されるのです。レヴィ=ストロースの眼を通して見た日没の景色は斯くも美しくなるのかと、読者に強く印象を残します。しかし、私にはこの章がこの本全体に対する弁明に聞こえるのです。つまり「このような私の精緻な眼と手があっても、あのブラジルでの経験を伝えることは難しい」という憂鬱の裏返しとして示されているのです。

 マルセイユの港をぶらぶらと歩く一人の男がいます。港で見かけた画家についてこう書き残しました。

 ちなみに、最近マルセイユの旧港の埠頭でなにもせずにいたときのことだが、日没のすこし前、ひとりの異様なほど細心な画家がカンヴァスにむかい、器用にそして迅速に太陽と闘っているのを見たことがある。太陽に対する色斑は、日の傾くにつれてすこしずつ下にさがっていった。結局はなにものこらなかった。画家は不意に、すっかり遅れをとっていることに気がついた。彼は壁にのこる赤い影を消しさり、水面にのこる一、二の光もとりのぞいてしまった。彼にとっては完成され、私にとってはまったく未完成な作品となったその絵は、とても悲しい、とても美しいものに思われた。(アンドレ・ブルトン『ナジャ』p175)

Ainsi, j'observais par désœuvrement naguère, sur le quai du Vieux-Port, à Marseille, peu avant la chute du jour, un peintre étrangement scrupuleux lutter d'adresse et de rapidité sur sa toile avec la lumière déclinante. La tache correspondant à celle du soleil descendait peu a peu avec le soleil. En fin de compte il n'en resta rien. Le peintre se trouva soudain très en retard. Il fit disparaître le rouge d'un mur, chassa une ou deux lueurs qui restaient sur I'eau. Son tableau, fini pour lui et pour moi le plus inachevé du monde, me parut très triste et trés beau.(André Breton "Nadja" p175)

 ブルトンの代表する著作の一つ『ナジャ』に記された暗示的な文章です。ブルトンレヴィ=ストロースのことを描いたわけではありませんが、何か想像を掻き立てるのには十分すぎる程、符合が一致しています。*1

 『悲しき熱帯』、そして『ナジャ』という書物には共通した出自があります。『悲しき熱帯』は1930年代にレヴィ=ストロースがブラジルで行ったフィールドワークの記録を、15年を経て本に仕上げたものです。『ブラジルへの郷愁』(Saudades do Brasil,1994)はその更に39年後、旅の中で撮影した写真を収めた書物として刊行されます。『ナジャ』はブルトンがパリの街中で出会ったナジャと称する女性の記録をまとめたもので、1928年に初版が上梓されました。その35年後、突如著者の手によって大きく改訂された版が発表されます(『ナジャ/著者による全面改訂版』(NADJA Édition entièrement revue par l’auteur ,1963))。幾つかの暗示的な写真と注釈、そして序文が加えられました。

  いずれの書も同じく「時の経過によって語ることが出来ること(出来ないこと)」を本文から超え出て語ろうとしているのです。

そもそも多くの点で、この書物の展開は、時の経過による、事態のとりかえしのつかない変貌を描き、むしろ全体としてそれをテーマにしていたのではないか、というのである。かくして注釈のなかにある、ブルトンがマルセーユの旧港の桟橋で出会ったという「ひとりの異様なほど細心な画家」、沈みゆく夕陽と闘っていた画家のエピソードが、この本〔『ナジャ』〕の性格をそのままあらわしているとも考えられるだろう。「太陽をあらわす画布の上の斑点は、日の落ちるにつれて少しずつ下にさがっていった。しまいには何も見えなくなった。画家はふいに、ひどく遅れをとっているのに気がついた。彼は壁に映っている赤い色を塗りつぶし、水面に残る一、二の映光までも消し去ってしまった。彼にとっては完成され、私にとっては世にも未完成な代物となったこの絵は、いかにも悲しげな、いかにも美しいものに思われた。」――とすれば、三十五年後に筆を加えたあの「序言」*2もまた、依然として、時の経過による事態の変貌がつづいていることを証すものではなかっただろうか。「それもこれも時のなせるわざである」と、ブルトンはすでに述べていた。(巖谷國士『ナジャ論』p23)

※強調は著書によるもの

 『ブラジルへの郷愁』は時の経過と、その物憂げから始まります。

 学術探検に出発する前,白蟻や黴よけにわたしの行季にしみこませておいたクレオソートーーその匂いを,いまでも私は,当時の調査手帖を開いてみるたびに感じる.半世紀以上たって,感知できないほどになっているにもかかわらず,この痕跡は直ちにブラジル中部のサバンナや森林を,私のうちに呼びおこしてくれる.それは他の匂い,人や動物の匂いだけでなく,さまざまな音や色とも分かちがたく結びあわされた構成物の一部をなしているのである.
(…)
 写真が私に,それと同じものをもはや少しももたらしてくれないのは,あまりに時が過ぎてしまったからというべきなのかーー経った年数は,匂いと同じだというのに,奇跡的にものとして残っている,私が撮った写真のネガは,あらゆる感覚や筋肉や脳が関与している体験の一部をなしてはいない.ネガは,体験を想起する手がかりであるにすぎない.私が見たり出逢ったりしたことをいまも私が憶えている,だがどこで,いつだったのか,あまりに古いことなので思い出せるとは限らない,生きものや,風景や,出来事の手がかりなのである.そうしたものが確かにあったということを,写真資料は私に証してくれるが,それらのものについて私に物語ってくれたり,それらのものを私の感覚のうちに戻してくれたりはしない.(クロード・レヴィ=ストロース『ブラジルへの郷愁』プロローグ)

 時間の経過は私たちの「書く=読む」という行為に何をもたらすのでしょう。記録された言葉をそのまま引用することもあれば(直接話法)、過去に記録された言葉を解釈して表現することもあります(間接話法)。あるいは、未来に託した目印から今現在の自分が言葉を生み出すこともあります(写真=付箋)。

 より精確な表現を探すべく延々と改訂を重ねても、その間隔はごく狭いもので、いそぎの読者はもとよりそうでない読者にも見おとされてしまいそうですが、私にとってはとてつもなく広く、はかりしれない代価をはらったものだといわなければならないでしょう。どうすれば私を理解していただけるでしょうか?

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

 
ブラジルへの郷愁

ブラジルへの郷愁

 
ナジャ (岩波文庫)

ナジャ (岩波文庫)

 
ナジャ論 (1977年)

ナジャ論 (1977年)

 

 

 

*1:この文章は『ナジャ/著者による全面改訂版』で追加された注釈の一つです。本文で読者に次のように直接語りかける場面で注釈されました。

印刷された文章のなかでさえ言葉と言葉とのあいだに唐突な隙間ができていたり、話の途中で足し算をする必要などないいくつかの節の下に横線が引かれていたり、解決を期待してもらえると信じていた問題の前提条件を日一日と、あるいは何日かおきにすっかり覆してしまうような出来事がまるごと消去されていたり、表現したいと思うどんな漠然とした観念にもどんな具体的な記憶にも時を追って感情の不確定係数が加わっていたり、除かれていたり、そうしたことのおかげで、私はもう、いま書いている数行と、この本をひもとくとき二ページ前までにおわっているはずの数行とをへだてている間隔の上にしか身をかがめたくなくなっている。この間隔はごく狭いもので、いそぎの読者はもとよりそうでない読者にも見おとされてしまいそうだが、私にとってはとてつもなく広く、はかりしれない代価をはらったものだといわなければならない。どうすれば私を理解していただけるだろうか?(アンドレ・ブルトン『ナジャ』p173)

*2:「遅れた至急報」