かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

失速する読書(原=読者、間テクスト)

 文学作品の評価、そこには評者の主観的な背景がつきまといます。一切の主観を放棄し、いわば神の視点からテクストを眺める「透明な読み」を、私たちは誰一人として心得ていないのです。
 徹底して主観を排した文学批評、それがロシアに端を発するフォルマリズム(形式主義)、そしてそれに連なる米国のニュー・クリティシズム(新批評)です。
 いや、こうした大局的な流れがあったとして、だから何なのでしょう。文学の客観的な読みが世間に浸透している?そんなことを一体誰が言うのでしょう。未だ文学批評は「個人的な見解」と捉えられています。そこには普遍的な価値を認めるための共通の尺度はないのです。*1

 

 ミカエル・リファテール(Michael Riffaterre)は「原=読者(archi-lecteur)」という方法論を構想しました。大数を基にした分析はいくらか科学的な方法論と言えます。しかし、果たしてこの方法論が有効となる場は存在するのでしょうか。

リファテールは「読者」の範囲をテクストを読み、それに何らかの反応を示す不特定多数の人たちの総計(平均ではない)として考えている。テクストの刺戟因をすくい上げるための道具となるさまざまな読者の総計、これが彼のいう「原=読者」(archi-lecteur)である。

ワードマップ『現代文学理論 テクスト・読み・世界』p.182 

 「原=読者」の読みなり解釈なりが仮に間違ったものであろうと、偏見に満ちたものであろうと問題は生じない。大切なのは読者がテクストの「何に」どう反応したのかではなく、あくまでも「どこに」反応したかだけだからである。「火のない所に煙は立たない」*というリファテール文体論の公理が語るように、たとえ間違った解釈であっても、それが文体的事象のありかを示す重要な指標の役目を果たすことは大いにありうるのである。

 

*「読み」の過程において読み手が躓いたり、顕著に反応を示したりするのは、そこにその種の現象を誘発するテクスト的、もしくは文体的な素因が潜んでいるからに他ならない。「火のない所に煙は立たない」というのは、そうした発見原理を意味している。

同書 pp.182-183 

 
 
 このリファテールの原=読者の方法論について考えていると、ふと自らのエントリーを思い出しました。

 最近は付箋を片手に読書をしようと決めています。印象的な一節や思い当たった一節、示唆的な一節に何かを感じたら、すぐに付箋を貼りつけるのです。自然な読書が中断される動作に(とりわけ良い気分のとき!)最初は煩わしさがありましたが、この地道な企てが功を奏し、付箋の頁をめくるだけでお目当ての文章が見つかるようになりました。

付箋、スナップ写真、Qui suis-je?(私は誰か?) - かかれもの(改訂版)

  原=読者の反応のようですが、これは似て非なるものです。原=読者の躓きとは「どもり」のような、とっさに読むことができない形式を示しているはずです。原=読者という予言的な言葉に私は躓きの石が置かれているように見えるのです。もう少し近寄って眺めてみましょう。

  解釈の流れを断ち切り、読解の作業を失速させる要素に注目するという方法は、リファテールのもう一つの研究領域にもほぼ同様な形で適用されている。「間テクスト性」をめぐる彼の一連の研究がそれである。
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順調な思考の流れが断ち切られ、解釈行為が足止めをくわされる箇所にこそ、そのテクスト以外のテクストからもたらされた間テクスト的な要素が潜んでいる確率が高いというのが、彼のおおよその考え方である。

ワードマップ『現代文学理論 テクスト・読み・世界』p.184

  きっとここに付箋に込めている真の意図があります。私にとっての付箋はある別のテクストに対する共時=並行性の想起をきっかけにしています(ハイパーテキスト化とも呼べます)。隔たった二物を繋げる、なめらかな「つなぎ」でしょうか。

付箋はあるセンテンスを想起する役割を担い、同時に、想起させられる(逆方向の)役割も担っています。
 原=読者という言葉を巡って、ザナドゥ計画、イペルテクスト・イポテクスト、ベリーピッキングモデル、そんな類縁した概念が頭をよぎります。
 ここには一筋縄にはいかないテクスト対テクストの懸隔が広がっています。

現代文学理論―テクスト・読み・世界 (ワードマップ)

現代文学理論―テクスト・読み・世界 (ワードマップ)

 

 

*1:客観的な読みが求められないのは、個人的な見解としての文学批評が未だ社会において一定の評価を得ているからでしょうか