かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

写真を巡る贈与

 夏を満喫しよう!という召集にカメラマン役として参加しました。ファインダー越しに人を眺めていると、風景を撮るよりもポートレイトのほうが楽しいものだと実感します。翌日、写真をまとめて参加者に送ると、ひとしきり喜びの声が上がりました。こちらとて楽しい気分になります。

 私がカメラを持つようになったきっかけは、ある人から写真をたくさん撮られたこと、それが嬉しくて仕方なかった経験に始まります。思い出になる集合写真、ふとした一瞬の様をとらえた写真、私一人のポートレイト、それらが印象深くこころに残ったのです。そして多くの写真にはカメラマンが不在でした。当たり前のことですが、これがどこか、ぎこちなく、そして不自然に感じられたのです。一緒にいたはずなのに、そこにはいない、と。*1一緒にいたのだから、彼もまた記録に残さなければならない。そんな如何ともしがたい切迫感が、カメラを持たせる後押しになりました。

 写真は一つの贈与であると確信しています。これを理屈で説明することは難しいのですが、「返礼したい」という欲望、その切迫感が私の内に生じていたことは確かです。
 カメラを持つようになってから、写真に返礼を期待するようになりました。これは「私はあなたを撮った、だからあなたは私を撮らなければならない」という意味ではありません。私が期待してるのは巡り巡る返礼です。すなわち「私はあなたを撮った、だからあなたは誰かを撮らなければならない」ということです。

 写真を送った数人から「カメラ凄い、私も欲しい!」という声が上がりました。こう感じてもらえるのは、写真を撮ることや、撮った写真を見て貰うこと以上に喜びがあります。写真にまつわる「借り」を、こうした形で返すことができるのはとても幸いなことです。写真を巡る贈与の輪は、彼(彼女)らを通じて終わりなく拡がっていくことでしょう。

 

私たちはいわゆる「補完的」な関係のなかで、自分に足りないものを獲得することはできない。すなわち、「私があなたに足りないものを提供するから、それと引き換えに、あなたは私に足りないものを提供してほしい。それでちょうど貸し借りなしなのだ」という関係のなかでは……。そういった意味では、「他者」は私をまったく補完してくれない。足りないものが《等価交換》で獲得されることはないのだ。そうではなく、「足りないものがある人」に、《借り》を通じて、その足りないものが贈与され、そうやって「欲望をみたされた人」が今度は何かを贈与して、また別の「足りないものがある人」の欲望を満たす。足りないものは、そうやって獲得されるのである。

『借りの哲学』p.210

 まさにその通りであると、日々暮らしていて感じます。 

それにしても皆さん、写真を「撮られること」がお上手なことで。「撮られる姿勢」という贈与もまた受け取らなければならないと感じました。

 

借りの哲学 (atプラス叢書06)

借りの哲学 (atプラス叢書06)

 

*1:「そこに彼がいる、そこに私はいない」という視覚認識と反転しているからでしょうか