かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

付箋、スナップ写真、Qui suis-je?(私は誰か?)

 「どこかで読んだはずなんだけどなぁ……」と頭に残っている一節が、何の本の何頁に書かれていたか思い出せないことがあります。何冊か引っ張り出して、いきおい斜め読みをしたところで存外見つけられないものです。なぜ思い出せないのか、なぜ見つからないのか、付箋に触っているとそれが腑に落ちたような気がしたのでここに一部書き留めます。

 数多くブログを読んでいると、稀に的確に引用文を持ち出す人がいます。主題との調和、手際の良さに惚れ惚れしてしまいます。手捌きの術をぜひご教示願いたいものです(しかし、彼らは意識せずにそれをこなしているようにも見えます)。

 まずは形から入ろうということで、最近は付箋を片手に読書をしようと決めました。印象的な一節や思い当たった一節、示唆的な一節に何かを感じたら、すぐに付箋を貼りつけるのです。自然な読書が中断される動作に(とりわけ良い気分のとき!)最初は煩わしさがありましたが、この地道な企てが功を奏し、付箋のページをめくるだけでお目当ての文章が見つかるようになりました。この時ばかりは自賛したくなるものです。

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2013/2/4

 ふと、この付箋をフックにした追想の感覚が、写真を見ているときの感覚に近いことに気が付きました。写真という景を写し取ったメディアが、そこに居合わせた肌触りを蘇らせるのです。

 普段書き留めているライフログに写真があると、その一日の記憶が明瞭に蘇ります。そこから私はこう直感しました。写真を撮る動作の煩わしさと、付箋を貼る動作の煩わしさは通底しているのではないか。

 「旅行で写真を撮るか否か」という一つの尽きない議論があります。かたや写真を撮ることで旅の記憶を蘇らせることができる。かたやそのときの生の体験にこそ意味がある、と。それが両者の主張するところです。実際は適度に写真を撮りながら旅を楽しむのですが、この議論の射程を伸ばすと、面白い問いかけが見えてきます。「それは、誰か?」と。

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2014/4/27

 体験か、記憶か、それは旅を享受する姿勢として捉えることができます。それは読書(=非実在への旅)にも通底している、私はそう考えます。一回性の体験に重きを置く人にとって写真は不要でしょうし、本は一度読んだらそれでおしまいです。それに対して写真による記憶の蘇りを期待している人にとって読書とはなんでしょうか。それは本に書かれていることの真の意味を今現在ではなく、未来に投げかけていると考えられます。今現在の自分に賭けるのか、あるいは未来の自分に賭けるのか、そんなスタンスです。

 付箋と似て非なる「栞」についても考える必要があります。さしあたり栞は前回までに読み終えた頁を開くため道具です。取るに足らないような気がしますが、問題はどこで栞を挟んだのかということです。本を閉じるタイミング、それは生理的な理由、物理的な理由、あるいは突然の訪問者によるものかもしれません。いずれにせよ、その契機を追究することに意味があるように感じます。

 お行儀良く章末で読書の中断することや、ひとつ一つのセクションに従って読み込む所作は作者との同期と言っていいでしょう。教師が「では続きはまた来週」と言って、講義を締めくくるように、句読点が打たれることによって、浮動していた意味が決定されます。そこには各論としての、ストーリーの完結が用意されています。その一方で不意に本が閉じられ、意味が浮動のままになることがあります。突然の訪問者でしょうか?作者が意図していなかった場所に栞という句読点を打ち、私は玄関へ向かいます……*1

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聖書にせよ,中国の標準的なテクストにせよ,象徴記号による書き物の写本の研究では明らかなことだが,句読法の欠如が曖昧さの源泉になっている。句読法はいったん挿入されると意味を確定するが,句読法を変えると意味は一新されたり,覆ったりする。句読法が正確でないと意味をゆがめる。  ーーラカン

ブルース・フィンク『精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際』

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 優れた画家とは,人々が見るのと「同じもの」を見て,何か異なるものを見てとり,それを私たちに見えるようにする者だと考えられている。画家はそれまで見えていなかったものを露わにし,知覚できるようにするのである。ヴァン・ゴッホの場合なら,それは古靴から見てとれる人間性であろうし,モネの場合なら,盛夏の太陽の日差しの下,庭に揺らめくさまざまな色だろう。写真家は光と質感で同じことをする。フィルム,フィルター,シャッタースピード,絞りを使って,そこにあるものを明らかにする。それは既にそこにあるのだが,いわば見られるのを待っていたのであり,写真家の手がなければ見られないものである。駆け出しの音楽家は楽譜の音符に従ってほぼ正確なスピードで演奏しようとするが,熟達した音楽家は,スピードやアクセントを変えることによって,まったく同じ音符に暗黙のうちに含まれる多様なメロディーや声を巧妙に引き出す。

 〔精神分析家である〕治療者としての私たちも同じように行っていると見なすのは,有益な考え方だろう。私たちはそこにあるもの――既にあり,聞かれるのを待っているもの――を明らかにするのだが,それは私たちの手助けがなければ聞かれないものである。「自分の欲望はささやきのようなものでした。分析を始めるまで,心のささやきは,それまで誰も,自分でさえも聞くことがなかったほど,かすかなものでした」。ある私の分析主体がかつて言ったことである。

ブルース・フィンク『精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際』

 精神分析家とは患者の持つ不明瞭なものを明確な形へ転化させる人物だと一般にイメージされますが、それは正確ではないとフィンクは言います。精神分析の文脈において分析家に相対しているのは「患者」ではなく「分析主体」であり、分析の場で実際に分析を執り行うのは、分析家ではなく患者自身であるとされています。つまり、分析家が「問い」を繰り返すこと(「どうしてそう思ったのですか?」「それで?」等々)によって、分析主体が自分自身の力で自らの謎に追及することを促すのです。精神分析家は分析主体それ自身が持つ謎への追及を促す「機能」にすぎません。

 知を想定された主体から放たれる句読点に、分析主体は自分自身の言葉の意味を問い始めます。分析主体はこうして自ら、自らのストーリーを構築することで言語化から逃れたモノを掴もうとするのです*2

 本来なら本は一度で通読するべきだと考えています。しかし実際には時間や眠気との戦いです。どこかで栞を挟み、中断せざるを得ません。ですから、再び本を開くときに前回までの振り返りが必要になります。ストーリーがどう至ってきたのか、それを今一度追想し、途切れた線の先を手繰り寄せるのです。

 このときに真に意味を取り戻しているのかどうかはさして重要ではありません。今現在私がどう意味を与えているかが重要なのです。横暴に言ってしまえば、作者の真に言いたいことではなく、自己が見出した意味こそ見よということです。

 普段私たちは生活そのものを意識せずに暮らしています。「忘我」しているものです。特別なことがない限り、無意識に起き、食べ、学び、働き、遊び、そして寝ているのです。しかし時として自分を振り返る場面に出会います。その象徴的な仕草が「写真を撮る」「付箋を貼る」といったものではないでしょうか。「それは、誰か」として、過去と未来という時間の論理的な流れと、その時間性が流れ込む「現在」を意識させることで、生に客観的な視点を挿入する機能があります。

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私は誰か?〔Qui suis-je?〕 めずらしく諺にたよるとしたら、これは結局、私が誰と「つきあっている」かを知りさえすればいい、ということになるはずではないか?

アンドレ・ブルトン『ナジャ』 p.11

 改めて「栞をはさむ」は何の象徴でしょうか。それはきっと生活の中にある「眠り」です。目覚め、意味を引き出し、再出発するためのものでしょう。

 幼い頃、夜眠るのを怖がっていることがありました。「眠り=死」というナイーブな発想をしていたのです。本を一度で読みきってしまいたいという強迫は、きっとそれに通底しているのでしょう。この続きはもう一生読めないかもしれない、だから今読んでしまいたい、という願いです。あるいは中途で「夢」に耽り、ストーリーを見失ってしまうかもしれないという恐怖です。

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電子書籍もブログもいわば、それ自体付箋的なメディアで、「墳墓としての書物」のような、独自の厚みと質量をもつことはないでしょうが、一方で書物のメタファーに還元されず、「本文」を欠き、あちこちから貼りつけられて、瞬時にはがされる付箋の集積は、固有のオーラがあるような気もするのです。

書物と付箋 - パランプセスト 

*1:読書とは作者の内心を読み取る作業のように感じますが、全くの逆の可能性があることも指摘します。傍線を重ね、付箋を貼り、意味を引き出すことで、私たちはテクストを利己的に引用しているのです。作者に同期し、重要箇所を見つけ出すというのは、そもそも錯誤なのかもしれません。ベストショットは常に偶然撮られるのですから。

*2:しかし精神分析は必ず「失敗」し、分析主体は精神分析家のもとから去る決断が求められます