その1
おばさんと女性二人組
話ながら歩く
上司?に「タオル取って」
上司はキョトン
おばさん、「女性は◯◯〔判読不能〕なのよ、取ってよ!」といいながら手でおもいっきり押しのける
押し退けた瞬間にカメラが切り替わる
若干古めの映像で後ろ姿で写される、その女性の女子高生時代の姿
走り抜ける姿を鳥ながら終わり
その2
おばさん、再度上司の後ろに迫る(たまたま通りがかる)
上司、気が付き腰を押さえながら後退って道を開ける
女子高生時代の映像、屋上?で下着を干しているのを忘れている。取りに来たところ。
同級生がそれを眺めている。焦ってすぐに回収、退散(異性への嫌な記憶)
現在に戻り、屋上に下着を干す同じ場面
焦って取りに行く。屋上には既に上司がいる。が、下着の隣で見向きもしない。
なんのことなしに下着を回収。スキップで戻る姿、内心笑顔。心の声で(「あの人、隔週だったわよね」(恋?))を言って終わり。
(2017.5.17 夢の生け捕り)
映像のマッチカットが大変素晴らしく思わず記録に残した夢です。
夢はマッチカットの連続です。あるカットから別のカットへ淀みなく進んでいきます。私たちはそれを物語として受動的に眺めることしかできません。
夢の記録を見ると特徴的な「書き間違い」があることが分かります。文字の簡略化(走り書き)、誤字誤用・同音異義語の頻出、母国語と外国語(英語)の混同、短期的な言語新作が起こります。
基本的に夢の記録は手書きで実践したほうが奇抜な表現が現れやすく、楽しいのですが、判読不能な文字が多くなります。解決策として電子機器で記述する方法があります。文字が正確に打ち出されるので、的確な記録が残せそうですが、手書きが持つアウラは失われてしまいます。
夢の記録の不可思議なところは、清書をすると大変つまらない内容に変わってしまうことです。清書したものを読み返すと夢のリアルな感覚、肌触りが消えてしまっていることがよく分かります。
夢の楽しさはマッチカットの連続に乗っている状態そのものです。「書き間違い」はカットの繋ぎとしての機能を内在している場合がありますから、修正するべきものではありません。
私が夢にこだわるのはアンドレ・ブルトン率いるシュルレアリストの影響であることは言うまでもありません。
摩訶不思議な「自動記述(Écriture automatique)」なる実験を試したくなり、夢に馴れる努力をした時期がありました(残念ながらデスノスのような優れた才能が無いことはすぐに分かるのですが)。自動記述に最も近づいた時期の記録がここにあります。
Ⅰ、心臓音=言葉に見えた。玉の連なりとして音符のように。被物となって、白黒、DNAとして。背後から部分的に、円、映像的な。円が背後をかけ巡り、それをとらえようとする。見えたときにそれは、動脈それ時体であった。
Ⅱ、輝やっていた。書いた文字ではなく、書かれた文字が白く光っていた。ξ〔判読不能〕のような音の直性形。文字、明調のようなフォントちりばめられていた。私はそれを真似て種に新たな字をつくった。めなかった。女の名があった。手を動かすのはコツをかめばカンタンである。しかし、心臓が聴こえて夢であった。
(2013.9.25 夢の生け捕り)
何度読み返しても奇々な文章です。これは夢の中で無我夢中で生け捕ったと思いきや、それ自体が夢だった不思議な夢の記録です。*1
「書いた文字ではなく、書かれた文字が白く光っていた。」というのは大変神秘的な映像だったことは間違いないのですが、残念ながらもはや想起することができません。
そして、夢の記録のいくつか。
「つくのばた」…①ここは大きな実がなる畑だ②必ず来る素晴らしい人との出会いを待っている(掛詞)
(2015.7.14 夢より)
0.3秒刻みのストップモーションアニメのようにカクカクとした視覚と、緩やかな動作。まるでレイヤーが何重にもなるようにして、1コマ毎の景色が次々に重なった。目覚まし時計の針を確認しようとすると、表面のプラスチックの反射に遮られて、自分の顔がひびの入った鏡のようにそこに幾重に写った。
(2012.11.12 夢より)
実家からの窓の眺め。夜、あるいはモノクロの外の景色。6mほど先に家を取り囲む高い柵、もしかしたら跳び掴まれるのではないか。多角的カメラ視点。跳ぶというよりも飛んだ。柵を乗り越え、ビルから暗闇に落下。 私の指名した彼女は青に近い水色のバスタブに、影の枠となった。私はそれを覗き込む。
( 2012.11.27 夢より)
*1:野暮ながら解説をすると、Ⅰは「夢の中の夢」。Ⅱは「夢の中の夢」の自動記述をしている夢です。末尾に「心臓が聴こえて夢であった」と書いてあるのはまさに覚醒直前の感覚のことでしょう。