かかれもの(改訂版)

本や写真、現代思想の点綴とした覚書

再び書かれた言葉について/もう一つの在り方

K・Sに捧げる

 手書き文字はもとより、手書きの手紙を偏愛しています。
これは近頃の電子化云々の流行に対する反発というよりも、自身の向きではないかと思っています。
 手紙に限らず、手書きのメモもまた私の心を躍らせる作用があります。その場限りの走り書きであっても、将来の用途が無い伝言文であっても、いつまでも捨てられずに引出しの中にしまっているものです。
 一方で、見ず知らずの他人の手書き文字はなぜか愛することができません(古本に加えられた注釈、街中の落書き…云々)。多分それは宛先に私の名前が付記されていないから。ただそれだけのことでしょう。

 書道がひとつの美学と結びついているのは、一回性を根底に据えているからではないかと思っています。
 一度書き損じてしまったら、初めからやり直しです。書き間違いを打ち消す手段はありません。だからこそ最後の一点で、竜が天高く昇るか、あるいは奇妙な蛇が出来上がるか、書道の妙はそこにあると信じています。

 そう、手書きの文字を愛しているんだ!

 そう、思っていました。

 打ちまちがい Fautes de frappe

タイプライターで書く。何ひとつ、軌跡がない。そんなものは存在しないのだ。が、やがて、突如として跡が残される。《産出》がない。近似的な接近がない。文字は誕生せず、コードの小片が押し出されるのだ。打ちまちがいとは、それゆえまことに特殊なものである。それらは、本質的なまちがいだ。(・・・)それはどうやら筆記の際の特有の現象とはまったく異なるある種の障害に関係してるらしい。すなわちタイプライターを通じて無意識が、自然の書き手よりもはるかに確実に何かを書き出している。そこで一種の《書相分析〔グラファナリーズ〕》を想像することができる。それは色褪せた筆相学とは違って適格性〔弁別関与性〕をもつものとなるだろう。すぐれたタイピストがあやまちをおかさないというのは本当だ。彼女には無意識がないのである!

 『彼自身によるロラン・バルトロラン・バルト pp.144-145

これだ!どうやら前言撤回しなければならないようである!
 私は手書きの文字を好んでいたのではなく、「書き間違い(の可能性、の痕跡)」を好んでいたのだ。バルトの物言いを借りるなら、「無意識」を。

 書き直した筆跡を見るとどこか心が躍るのは、それが他者の思考の存在証明(他者の存在の仕方)であるからです。

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パリンプセスト(M・Yの手紙より)

 しかし、手書きかどうかは、もはや問題ではなかったのです。現代の歓待すべきもう一つの存在の仕方、それが「打ち間違い」なのです。

最後はの結末は
そっちか!って
なりましたけどね

(K・Sのメールより)

 文章のどうこうよりも、存在の仕方に惹かれてしまいました。
なぜならここには校正の残滓があるからです。私たちは普通文章を書くとき、助詞(「てにをは」)を重ねてしまうことはありません。
 では何故このような打ち間違いをしたのでしょうか。それは内省的に文章を書き直したからに他なりません。

 私は言葉を偏愛しますので、これを過剰に分析します。

最後は
そっちか!って
なりましたけどね

 という言葉が初めにあったのでしょう。
そして結末であることをより強調するためにそれを重ね言葉にします。

最後の結末は
そっちか!って
なりましたけどね

 そして消し忘れた助詞が残ってしまったのです。

最後はの結末は
そっちか!って
なりましたけどね

 文章の電子化には書き間違えた文字、かき消された文字を一層見えづらくさせる作用があります。つまり《産出》がないのです。しかし、このように突如として押し出される小片として、もう一つの存在の仕方を与えられているのです。

 だから私は間違えた記法(変換間違い)を好みます。

計画を建てる(計画を立てる) (M・Yのレポートより)

失恋しました(失礼しました) (A・Nの発言より)

 これはささやかな反抗です。私は意識せざるものの「産出としてのあやまち」を待ち望みます。そして意識せるものの「押し出されたあやまち」も待ち望みます。なぜなら複製ではない、あなた自身の言葉を聞けるのですから。
 「修辞」は文章の化粧のようなものだとしばしばいわれます。〈女性性〉が付きまとっているのです。では「校正」もまた〈女性性〉を表しているのでしょうか。つまり、校正もまた修辞の一種なのでしょうか。

 私は否と考えます。修辞は自分をより大きく、より美しく見せるための手だてですが、校正は輪郭を鮮鋭にするためのいわば削る手だてです。

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青い靴下(K・S)

 つまりあの時、なぜあなたは青い靴下が気に入らなかったのでしょう。あなた自身の審美眼が内と外で入れ繰りしたのでしょうか。

 修辞的に自分を美しく見せようとし過ぎると、いつかどこかで破綻してしまうものです。あなたはそれを校正しようと努めるのですが、そこに小さな躓きの石があるのです。

 何かを伝えようと、何かを見せようとする、ふたつの揺れ動きの狭間から現れる、無意識としての「あやまち」を、私は歓待します。

 再び書かれた言葉(recrits)を待ちながら。

「つまらない」コラール

 

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《食欲をそそらないコラール》

 エリック・サティが「スポーツと気晴らし」(Sports et divertissements)におさめた冒頭の一曲です。

 すっと耳に入る穏やかなコラールですが、その譜面の傍に奇抜な序文が掲げられています。ここにエリック・サティという存在の韜晦さが十二分に示されています。

Préface

 This publication consists of two elements: drawing, music. The drawing part is composed of lines – witty lines [a pun: trait d'esprint="witty remark"]; the musical part is represented by dots – black dots [also means whole: "blackheads"]. These two parts combined – in a single volume – form a whole: an album. My advise is to leaf through this book with a kindly & smiling finger, for it is a work of imagination. Don't look for anything else in it.

 For the Shriveled Up and the Stupefied I have written a serious & proper choral. This chorale is a sort of bitter preamble, a kind of austere &  unfrivolous introduction. I have put into it all I know about Boredom. I dedicate this chorale to those who don't like me. I withdraw.

 ERIK SATIE

『Twenty Short Pieces for Piano』p.7

序文

 この出版物は、デッサンと音楽という、ふたつの芸術的要素によって構成されている。

 デッサンの部分は、線による形ーー機智にとんだことばによって、かたちづくられている。音楽の部分は 点ーー黒い点によってあらわされているわけだ。この2つの部分が一巻に纏められ、アルバムとして全体を形づくっている。私はつぎのことをお薦めしておきたいと思う。

 ーーつまり、この本の一ページ、一ページは、微笑みをたたえながら、やさしさにみちた指先でめくられるようにと……。

 なぜなら、この作品は幻想の作品だからである。けっして、それ以外のものを、そこに見てとるようなことのないように。

 ”無味乾燥なしなびた人々”や”愚かな人々”のために、私はかれらにふさわしい厳粛なコラールを書いた。このコラールは、一種の苦味のようなものである、渋く、すこしも軽佻浮薄なもののないところから始めるというやり方である。私はここに退屈(倦怠)というものについての私の知っているすべてを盛りこんでみた。

 私はこのコラールを、私を嫌っている人々に捧げる。さて、それでは、このへんで引きさがることにしよう。

エリック・サティ覚え書』スポーツと気晴らし pp.394-395*1

 2015年のエリック・サティとその時代展 | Bunkamuraで見たサティの楽譜は嘆息するような緻密さがありました。

  どうやらこれはカリグラフィーと呼ばれる類で、日本でいうところの書道に相当するようです。聴覚的に、そして視覚的にも愉しめるように作られているそれは、美術品のようでした。


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  旅先でふらっと立ち寄ったササヤ書店で偶然手にしたサティの本は、楽譜というよりも、謂わば「絵本」のようでした(一目惚れして買ってしまったのは言うまでもありません)。

Twenty Short Pieces for Piano (Sports et Divertissements) (Dover Music for Piano)

Twenty Short Pieces for Piano (Sports et Divertissements) (Dover Music for Piano)

 

  本書は「スポーツと気晴らし」を構成しているエリック・サティ(音楽)とシャルル・マルタン(挿絵)の両方が、作者の意図通り、欠けることなく掲載されています。おそらくこの本は弾くためではなく、観賞するための本です。 

 飽き飽きした食指の動かない模範的コラールは、同時代を生き、生前から評価を受けていたドビュッシーとの対照を象徴するようです。しかし、だからこそサティもまた時代に囚われず取り挙げられる芸術家として、別の普遍性を獲得しているのかもしれません。

 この「つまらない」コラールを聴いていると、ふと坂本龍一「async」の冒頭を飾る曲を思い出します。

Ryuichi Sakamoto / async from commmons on Vimeo.

*1:

 

エリック・サティ覚え書

エリック・サティ覚え書